人は何かに没頭するとき、我を忘れて取り組んでいるものです。
誰かのために一心に祈る事や、何かのために全身全霊で挑むことで「我」があったことも思い出さなくなるのです。
例えば、仕事と自分が分かれているときはどうしてもそこに我が入ってきます。計算とも言いますが、その心を優先するよりもどうやったら上手くいくだろうかと考えてしまうものです。そういう時の中心は自分の我の方にある時がほとんどで知らずしらずに本質から外れていくものです。
人は頭でっかちになると、頭で全部を認識し頭で何かを行おうとしてしまいます。心で共感して魂が揺さぶられ行動するという実践をするよりも、頭は目先の現象を解決しようと躍起になってしまうものです。
人は利他に生きる時、我を忘れるように思います。
その人が大丈夫か、その人はどうなっているか、相手をまるで自分以上に思いやる時にこそ我が消失していくからです。そういう状態を没頭というように思います。
この没頭という言葉の同義語は、「無我夢中 ・ 心 ・ 打ち込む ・ 一向 ・ 虫 ・ ひたむき ・ 一心 ・ 耽る ・ 熱 ・ 傾斜する ・ 集中させる ・ 見向き ・ 埋没 ・ のめり込む ・ 脇目 ・ 情熱的 ・ 注ぐ ・ 入り込む ・ 嵌まる ・ 明け暮れる」(webilio類語辞典より)とあります。
どれも我がないときを表現する言葉です。
人は我があるのは、自分の方を心配するのを先にして相手を先に慮ることをしなくなるからです。相手のことを相手と一体になるほどに思いやったり、相手のために少しでも自分を活かそう、相手がもしも自分だったらどうすればいいかと具体的な行動によって信を実践するとき、はじめて頭では考えられなかったような奇跡とも言うべき現象に出会うように思うのです。
何かに没頭するというのは、悟りを得ることに似ています。
それはまるで、いつ悟ったのか分からない程に偉大な気づきを毎回得るのです。そこには感謝から昇華した澄んだ真心や、得難い機会を得た無常の歓喜などいつも其処には存在しているのです。
これを一番得意に遣り切っているのは眼を輝かせている清澄の魂がある子どもたちです。
我を超えたもののために自分を使っている毎日を真摯に生き切る実践を求めていこうと思います。若さを武器にし、理念を主軸に自分を変えるような同志を世の中にたくさん輩出していきたいと思います。
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自分の心配事を抱えたままで「誰かのために、自分のことを後にする」のはとても難しいことです。本当に「利他」に生きるためには、自分のことで手一杯、自分の悩みで心一杯にならないようにしておく必要があります。どんどん前倒しをして、手持ちの仕事を少なくし、悩みも片付けておくことが大事ではないでしょうか。
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生まれてからまだ二十数年ですが、子どものときの方が夢中に取り組んでいたことがあると感じています。次第とそうなれなくなってきているのは、自分を優先しだしたからなのだと思います。これから先どう生きるか、どう生きれるか大切な問いだと感じます。
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家族が病気に掛かると、我が出てしまうのは、自分自身が普段家庭で出来る事があり、その不足から来ている事もあるのだと思います。家族が安心して病を見守る環境を作ることが課題です。
人類の歴史の中で夫婦だけで子育てをする様になったのはこの五十年である事を学びました。
何を変えて何を守るのかを考えて行きたいと思います。