人が生きるのに生き甲斐というものがあります。
生き甲斐とは何かといえば、生きることで歓びを感じる事です。
そしてどういう時に生き甲斐を感じるかと言えば、誰かの役にたっている実感がある時です。自分の存在が、人に歓んでもらっているとき、人は幸せを感じます。
しかしどうしても結果のことばかりを思ったり、相手がどう思うのかばかりを考えたり、自分のことばかりを思うと大切にしていることよりも目先のことを優先してしまうものです。
そういうことを続けていくと次第に歓びを感じるよりも、なぜ結果がでないのだろう、なぜ誤解されるのだろう、なぜ上手くいかないのだろうと不平不満に囚われていくものです。
長い目で考えたり、結果よりも意味を感じたり、自分の真心を遣り切ったり、全体が善くなることに尽力したりすることでそういう囚われから抜ける方法論もありますが、実際の自らの心は何を求めているのか、自らの心をどうありたいのかと向き合い、具体的な生きざまの実践にする仕組みを持つことで人は囚われにくくなるように思います。
仕組みというものは体制のことで、どのような体制で日々に取り組むのか、日々を生きようとするのかで自らの姿勢をも正していけるのです。もちろん、姿勢を正して体勢を善くしていけばそのうち体制もよくなるのだからどちらからでもいいのです。
四六時中自他の幸せのために尽くすような生き方や、四六時中困っている人たちのことに役に立とうと智慧を振り絞る中に自分の御役目があることを自覚していくように思うのです。
自他の幸せの御役目を与えてもらっているということは、日々の心を遣う機会を持つことのように思います。ないものねだりをしても仕方がないので、できることを積み上げていくこと、やれることは全部遣り切っていくこと、そういう中に相手からいただける有難うを噛み締めて幸せの種を蒔いていくように思います。
人は結果よりも大切なことを優先され、見守られることで自分の存在に感謝できるようになるものです。
存在を大切だと思えるとき、いつもそこに幸せの種に養分が注入されていくのを実感します。ご縁の大切さ、出会いの感謝、そういうものを忘れないためにもいつも相手のことを自分に置き換えて貢献していく実践をさせていただきたいと思います。
忙しい時こそ、大切なことを決して忘れないようにと実践を強くしていきたいと思います。
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私は自身を省みると、人に差し上げた好意から「感謝される」ことよりも、人からいただいた好意に対して「感謝をお返しする」ことの方が、やや疎かになっているように感じます。相手の好意を当たり前に感じてしまったり、軽薄なお礼をしてしまったり…。
自分の感じる幸せの方が多くなってしまうことのないよう、素直な姿勢で何時でも心を込めた感謝の気持ちをお返し出来るようにしておきたいと思います。
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最初はお役に立ちたいという思いで始めたことでも、思うように展開しないと、結果に気をとられたり、相手の評価が気になり出したりして、努力する内容がズレてしまうことがあります。「結果」や「評価」を気にして進める仕事は、結局はお役に立てないのですが、「結果を問われる」「評価が下る」ということは結構恐怖です。その恐怖心を乗り越えるには、せっかく与えられているこの機会に「自分はどうありたいのか」という原点に返り、やることの「意味」を明確にして「真心」を尽くすしかないことを肝に銘じておきたいと思います。
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どうしようか、何をしようかと捉われているうちに、そもそもどう在りたかったかを忘れ遣り方ばかりを考えていた自分がいます。何かをやっているほうが遣っている気になりがちですが、それはきっと手を掛け過ぎの過干渉なのかもしれません。自他ものに成長する在り方を追求していきたいと思います。
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日々の不安を紐解くと、そこには自分自身の囚われがあることが多い事に気付きます。こうなるかもしれない、ここがわからない。そう思うことは大切ですが、その気持ちがそもそもの目的や、体勢を忘れるほどに膨らませてしまう事があるのだと自分を振り返り気付きます。させて頂いているという境地で体勢があるのかという点をいつも自分に問いたいと思います。