最近は、テレビの影響とかいう言葉も聞かなくなってきました。
一昔前は、テレビを見る事で考えない子どもになるとか、テレビの影響で洗脳され脳が働かなくなるとか言われていたことがあります。これは、一方的に聞くとか見るとかを続けていることで、情報量の多さで心頭が麻痺してしまうようなことであったように思います。
そのせいかどうかは分かりませんが、聴聞ということが分からない人が増えたように思います。
聴聞というのは、聴くという字と聞くという字が入っています。聞くというのは、情報をそのままに感じ取っていくときの聞くで日々に様々なことを聞いては知るというように情報を処理していきます。もう一つの聴くというのは、自分から疑問に思うことを質問したり自分の思いを相手に伝えたり、その瞬間瞬間の自他の心を感読しつつ通じ合うことをいいます。
心耳という言葉があるように、聴くというのは心が行うことであるから同時に自他の間にある真心を通じ合わせていくのです。その聴くというのは、単に聞いたから分かるのとは異なり、自分から主体的に相手を傾聴し、共感し、受容していることをいうのです。
人と話をするのに、心を遣って頭も合わせて丸ごと全部で行うことが聴聞なのです。つまりは聴聞するというのは、心から耳を傾け相手のことを理解しようと努め、きっと何か大切な理由があるのだろうと思いやることをいうのです。
浄土真宗の親鸞の記した教行信証にこういう言葉が残っています。
「楽んで世尊の教を聴聞せん」と。
これはこのんで釈尊の教えを聴聞していきたいという意味ですが、この「聴聞」の左訓に親鸞は手記で「ユルサレテキク シンジテキク」と記しているようです。
つまりは親鸞にとっての聴聞とは、許すこと信じることという実践であったということです。聴くというのは何を聴くか、それは同時に自分の心を映し鏡にして相手に透過していく聴くであるのです。そして聞くというのも、素直な本心本音でその人の良知が引き出されるようにあるがままの澄んだ耳で聞くということなのでしょう。
聴聞というものは、自分の心の耳が行うものです。
この心耳の実践こそが、人々の心を救い、導く仕組みになっているのです。
ものにしていくには、まだまだこの心耳を澄ませていかなければなりません。
日々の実践道場の中で、ミマモリングを通じて学び勤めていきたいと思います。
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聴くために訊くことを意識して臨みましたが、実際は感情のやり取り以上に説明が飛び交っていたと感じています。過去の経過や出来事以上にその背景にある感情を聴くことが大事だったと振り返ると感じています。聴くことは難しいです。聴くことに積極的になれるよう自分自身の感情を伝えていきたいと思います。
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今日もいろんな方と会話・対話をしましたが、相手によって、あるいは内容によって、その聴き方が違いました。まだまだ自分が聞きたいことを、聞きたいように聞いているだけです。自分の価値観で、自分の「ふるい」にかけて、聞き分けています。ほんとうに聴くべきは、相手の「心の声」でしょう。そのためには、心眼を開き、心耳を澄ませて聴かなければなりません。「全身全霊で」と言い換えるなら、身眼を開き、身耳を澄ませ、一体となるということかもしれません。アドバイスや解決など、何か応えるために聞くのではなく、「ただ聴く、選ばずにすべてを聴く」「すべてを受け入れ、すべてを受け取る」という態度を身につけなければなりません。いかなるときも「ひとつの態度で生きる」という表現がありますが、聞き方にも「ひとつの態度で聴く」という実力があるように思います。「聴き方」が確立できなければ、「生き方」も確立できないのではないでしょうか。
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子どもとの対話で感じますが、怒ろうとして聞く時と許そうとして聞く時と、目的が変わると聞き方が変わります。怒ろう、説得しよう、伝えよう、納得したい、頭で理解したいという時は結局自分の都合を優先していると感じます。許そう、信じよう、受け入れよう、自分が変わろう、という時は相手を優先しています。この心の状態をしっかりと身につけて行くことがお役に立てる、『聴く力』を身につけて行くことだと感じています。
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記憶の中に埋もれていたものが呼び起こされ繋がり始めて頭の中が明瞭になる感覚を、ここ数日の間で何度も経験させていただきました。聴聞というのは話し手に安らぎや癒しを与えるもののように思います。言葉の背景にある大切なものを感じ取れるよう、素直な心で聴くという姿勢を大切にしていきたいと思います。