人は自信を持っているかどうかで、信頼関係ができるものです。
その自信とは、自分の中に揺るがないものがあるということであろうと思います。自分の信じたものが確かであればあるほどに人は自他を信頼していくことができるからです。
しかしそれはその人の生き方にまで関係してきます。
その人がどのような人物か、どのような生き方をしているか、言い換えればどれだけその人が自らに克てる人であるか、その人の真実にまで迫って理解しているようにも思うのです。
そして同時にそれはその人がどのような使命を持っているか、その人がどれだけの価値があるのか、それを知るに至るのです。人は自分のことが一番わかっていないものです、どれだけの価値が自分にあり、どのような御役目をいただいているのかを知れないのです。
その価値を自分ではなかなか決められないものです。それに気づいてくれる人たちの存在がその人に自分の真の価値を与えるともいえます。そのような社會によって気づかされていくものが信であろうとも思います。
人には誰にせよ個性があります。これはそれだけその人にしかない独自のものがあるということの証明でもあります。そしてその個性が認められ、それが揺るがないほどに自分の存在が自分で認められれば自信となるように思います。
人は何かしようがしまいが、存在しているだけで役に立つものです。役に立たない人などはいないのです。役に立たないものを神様は創ったりしません、役に立たないと人間社会で言っているだけです。
しかし役に立てないと思い込めばすぐに不安で自信がなくなってくるものです。そういうものを理解していくには、一つ一つの役目をどれだけ立てていくか、自分が何の役に立ち、人を役立て、そして自分がどれだけの信頼関係を社會で築いていくことができるかが大切であるように思います。
人は独りでは生きてはいけないというのは、言い換えれば役に立ち合うことで生きていくのだという意味なのかもしれません。その関係性を学ぶのが保育でもあり、そして人生でもあろうと思います。
その現場に居て、何をすればいいのか、子どもたちにどのように自信をつけさせてあげられるか、その仕組みを考えることが目下の私の課題です。
ミマモリングもはじまったばかり、まだまだこの自信については真摯に深めていきたいと思います。
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「自信があるか?!」と問われると、「あると言えばあるが、ないと言えばない」というのが正直なところです。「自信」の根拠は、成功体験などではなく、信じてやり続けてきたという実績であり、それは同時に、周りの人たちによって支えられてきた実力ではないでしょうか。結局、一人がんばっているだけでは「自信」というものは持てないように思います。誰かのお役に立つ方向で、自己が発揮できていると実感する瞬間を、日々どれくらい持てているか、日常のなかにこそ、「自信」の根拠となる積み重ねが必要ではないかと感じます。
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スイッチが入ったように吹っ切れることがありますが、それは決して揺るがないものではないので長続きしませんが、あの一瞬何でもできてしまいそうなモチベーションには不思議な感覚をもちます。ただ、本物に磨いていくために直視、実践、伝えることの大切さを実感しています。自分自身が現状何がどこまでできるのか、それも見て遣ってみないと気づかないことでした。遣って見て気が付きそれを話せる人がいること、周り人が見て教えてくださることその環境にいられることへの感謝の気持ちと素直に聞く自分で在りたいと思います。
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瀬戸先生の著書に「和」の例としてドミソの「和音」が挙げられており、ドの音・ミの音・ソの音は一つずつ弾くと、それぞれの音をしっかりと主張しているけれど、和音として一緒に弾けば、うまく混じり合ってより心地のよい音に変わるのだと書かれていました。
私は人と人との関係も同じでありたいと願っています。各自の個性を活かしつつ、全体と調和してお互いを高め合い、より大きな力を発揮していく。相手を大切に思えばこそ、言うべきことは素直に言うことが出来る。ことなかれ主義のような「和」ではなく、全体がしっかりと活かされる「調和」を目指して、謙虚に自分の姿勢を見つめ直したいと思います。
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自分の能力や技術を信じようとするよりも
自分の使命、お役目を信じようとすることを
大切にしたいと思います。そこを信じられれば技術や能力に縛られずに自信をもてると感じます。
役目の実践、そこでの自覚を自信に繋げて行きたいと思います。