先日、あるコンサルティングしている法人の話の中で防災について考える機会がありました。その後、子どもたちと一緒に釜石の奇跡のDVDを見て感じることもありました。
そもそも自然というものは、私たちが考えているようなレベルの存在ではありません。以前、私が大変驚いた話に長崎の島原の噴火があります。山の上から半分近くが噴火と共に吹っ飛び海に落下したという話です。そこから熊本の人吉に津波が起こり津波の高さは30メートルほどもあったという話です。
そんな話を聞いて、危機管理などできるはずがないと実感したのです。
そもそも危機管理ではなく、危機なのです。
子どもたちは自然をなめていません、それはその存在自体が自然に近いものだからです。素直に正直に怖いものを怖がるものです。雷も地震も、台風も自然災害を子どもたちは自然に怖がります。
しかし大人になってくると、人工的に操作された人間都合の出来合いの社会の中で安心安全という中にどっぷり漬かっていくのです。そうすると、まさかそんなことはないだろうとその人工的な存在の中で想定できる出来事のことでの危険が危険だと勘違いしていくのです。
本来は、自然というものは何が起きるか予想がつかないものです。私たちはその中で、自分たちの方を柔軟に変えて時には諦め、時には希望を持ち、自然から学んでいく生き物のように思うのです。
人間の思い通りになると思っている傲慢な考え方が、本当の危機の本質ということです。
結果ばかりを見ようとするのも傲慢な証拠ですし、自分の思い通りになると勘違いしていることもズレテいる証明です。子どもから学ぶのは、子どもも自然なのだから子どもならこういう時どうするかを考えてみたいと思うのです。
危機管理とは、子どもの方が不自然だと勘違いする大人の刷り込みのことなのでしょう。
何かのときは、覚悟を決めて真摯に自分のできる最善最大を行うこと。自然が分からないからこそ常に日頃の準備を怠らず、柔軟に対応できる訓練をしていくことのように私は思います。自然はそうはいっても厳しさもあれば慈しみというものもあるのですから、危機もまた自然から学ぶチャンスとして取り組んでいきたいと思います。
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小さい頃お化けや幽霊といった見えないものに恐怖を抱いていましたが、次第とその怖さの度合いは低減していったと感じています。見えないものに恐怖を感じられる感覚は、もともと自然に対しても何にしても自分自身が危機と感じるときの感度が高く、サバンナで暮らす動物で考えると狙われるのは子どもですから危機に対する感度が子どもが高いのは分かるように思います。自然に対しての危機の低さに自分自身刷り込みの渦中にいることを実感し、今子どもたちに聞かれたら何も答えられないように思います。連続してくる台風もどういった意味があるのか、どういった備えが必要なのかもっと真剣に考えていきたいと思います。
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人の一生にも同じようなところがあると思います。人生の青写真を考えることも大切ですが、思い通りにならないことや想定外のことが多々あるのだから、むしろ頭で考えて計画を立てることよりも、何事も好転させることが出来る柔軟性を高めることの方が重要なのだと感じました。わかった気にならず自然から真摯に学び直さなければならないことを痛感しています。日々の小さな出来事を疎かにせず、実践を通して訓練していきたいと思います。
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天変地異には「天意」があるのではないかと思っています。天の恵みや見守りに対する感謝を忘れること、天を敬う心をなくすこと、日本人としての大切なものを疎かにすることなどに対する警告のような気がしています。これらは、人間の傲慢さそのものです。人間が思い上がっている、人間が偉くなりすぎているのではないでしょうか。何に気づけと言われているのか?!その真意に気づかないといけないと感じています。
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震災の時の野見山さんは、純粋に危機を感じ、素直に受け止めていたのだと、改めて感じました。
山登りでも自分自身感じることがありますが、
そもそも、想定外に自然界はあり、だからこその畏敬の念なのだと感じます。もっと自然界の偉大さを信じ、共に歩むと決めて行きたいと思います。