意思の尊重

人は自分がどうしたいのかというのを、尊重してもらいたいという欲求がある。人間が自立して人格を発揮するには、自分が納得するまで本質を突き詰め、その自分の選択した理由を正しく周囲の理解と同意の上、大人としての正しいやり方で進めることで皆と共生し自立し人々と調和して行くことが必要になる。

今の世は、自分の意思が誰かに押さえつけられどうせ通らないと最初から諦めている人が多く自分が納得もしないまま働いている人もたくさんいる。これは学校をはじめ、今までずっと周囲に自分の意思を尊重されなかったので不貞腐れたり、もしくは何かしらの社会のルールの中でどうせ自分なんてと絶望をしたからでもあろうとも私は思う。

しかし、人間はどんな状況であれ、それはたとえ死の瞬間の選択であれ、自分の人生は最期は自分で決めたいという人間の根柢にある人権尊重の意思が存在する。どのように生きるのか、どのように生きたいかというのは、そこに貧富の差もなければ男女の差もなく、年齢の差もない、これは自分の内面を深めてもよく分かるけれど自分を尊重したいという切なる願望は、全ての人間が生まれながらに持つ人権尊重の願望でありそれは誰にも力技で抑え込むことはできないものだ。

それが自分の意思というものだ。

言論の自由も、思想の自由も、すべては自分というものを尊重されたいという人々の根源的な欲求を保障するうえで生まれたものだ。

ただ、巷を見てみるといざ自由にしていいと何も指示もせず自分の意思でやりなさいといって自由な環境を用意しても、今まで散々他人の命令に従い、自分で人格や品格を堅持するよりも言われたことをただやればいいだけだからと妥協をして生きてきた人は逆にそういう見守られた中で急には何もすることができない。

どのように周囲の理解を得て、どのように自分が納得し、どのような決心で何をやればいいのかなどを考えたことがないので何もできなくなったり、もしくは好き勝手やればいいのだと周囲に多大な迷惑をかけてしまったりして身動きができなくなってしまう。

どんなことも社会の中でで生きていくには自ら自覚し新人のような心づもりで最初から学び直す必要がある。いくら年数働いたからといっても、自分の意思を尊重される会社で働いたことがない以上それは新入社員といっても過言ではないからでもある。

子どもでも、最初はどうやればいいか自分が選択したことが納得できるものかを確かめつつ次第に自由というものを学び、次第に責任や自立というものを学んでいくもの。

社会人であれば最初に学ぶべきは、何のために働くのか、自分はどうしたいのか、そしてどのようにすることが最も全体のためになるのかというような、自分を尊重し人権が保障された社会で自分を活かすための方法を学んでいくのだと思う。

見守られた環境というのは、自分の意思が尊重されている環境を言う。

異なる言い方をすれば、それは自分で選択する自由を与えられているということだ。普通は、自分の選択肢は与えられるものであり自分から選択するものではないというのが今の画一化された社会であろうけれど、私たちのような会社はそうではなく最初から選択することができるようにしている。

どのように生きるのか、なぜ働くのか、これをやる理由はなど全部、本人の意思が尊重されているということは、自分で考え抜き自分で選択し自分で決心し責任を持つというプロセスを必ず通らなければ何もできないということでもある。

そういうことを考えもせず、行動すれば「なぜかいつもうまくいかないんだよね」など最初から本質を確認することもしないから選択もできず、納得もしていないのに「言われたからね」と動くからいつも結果が悪い影響を与えるものになるのであろうと私は思う。

自分のことをここまで大事にしてくれている環境というものが存在することに気づくまでは分からないことなのであろうとも思う。自分を尊重されるという幸福は何よりも代えがたいものであり、選択権を持つというのは自分で自分の人生を決められるという自由を得たということだ。

しかしそうはいっても今まで散々、誰かに意思をつぶされた記憶がある人は人を容易には信じない。それは、見守られていると本人が感じる力が弱いからでもある。

自分が好きに生きていい、自分の意思を貫いていればそれでいい、自分が決めたんだからそれでやりなさいというような、相手の決断を尊重することが私は人間が自分の意思で自立するにはとても大事なことだと思っている。

人は自分を尊重するように他人のことを尊重しなければ互いを信じ合い認め合い尊敬しあうこともできない。その人の意思は何よりも大切なその人の生き方であり、その人の意思こそ、その人である理由なのだからそれを大切にしていることは何よりも私は大事なことだと思っている。

子ども達には、自分の意思で選択し、納得のいく人生を歩んでほしいと願う。

大人が何かいっても、誰かがなにかいっても、最終的には自分が選択するということで自分の人生を切り開き、自分の人生を受け容れ、自分の人生の流れに身をゆだね、自然に溶け込むような生き方を選んでほしいと願う。

まだまだ示すべき手本はたくさんあることにテーマを持ち実践できることに感謝します。

  1. コメント

    人生の舵を握っているのは自分自身であることは自覚しながらも、どこにどうやって行くという人生の目標を自分で決めないと結局は舵は自分では切れないのだと感じます。自分らしく生きることをあきらめない為にも、せっかく両親から与えられた見守られた環境を無駄にしない為にも、そして子どもたちや家族、まわりの皆のためにも自分自身が輝いていきたいと思います。

  2. コメント

    自分を信じるということも勿論ですが何よりも周囲の与えられた環境に対して、
    周囲の人に対して、見守ってくれている方々に対して自分から信じるということを
    改めて考えていきたいと思います。信じてくれているからこそ、今の自分があり、
    どう受け取るのかということは自分次第であるなと思います。もっと今の自分に
    誇りを持って自分がどうありたいのかを見つめて本当に生きたい道にまっすぐに
    向かっていけるようにしていきたいと思います。

  3. コメント

    自分が納得していない道を歩むという事はもったいない事であり、いつの間にか自分で選択したのではないと責任を転嫁しているだけだと思います。何かがうまくいけば自分勝手に良かったと判断しうまくいかなければ人のせいにする。結果的に自分は納得していなかったんだと自分に言い聞かせている。しかし納得していない道を最終的に選んでいるのはやはり自分だと思います。私自身どうせ決めるんだったら本当に自分が遣りたい事を選択したいと思います。

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