自然の中に身を置く中で、生きる力というものを実感します。
自然の中で生きているものは、人工的なものと異なり厳しい環境の中で逞しく生きています。雑草もそうですが、種が落ちた場所を選ばずにその中でも生き抜いていきます。
たんぽぽなども善い例ですが、簡単には根付けないようなアスファルトや壁の隙間に立派に咲いている様子に心を打たれるものです。
これを不撓不屈というのかもしれません。
雑草を観ていると、自ら生きようとする心が観えてきます。
そしてその心とは何かと言えば、活かされているということへの実感。活かされたのだからという真摯な生き方の実践。つまりはどの今も真剣に活きているということを体現しているのです。
人間はいつからか生き易い方を選び、活き辛くなってきたように思えてなりません。
何でも恵まれた環境、与えられるのが当然となった環境、そういう中で人は大切な何かを見失っているのかもしれません。それは自然の本能と呼べるものかもしれません。本能が出てこないような生き方そのものが活き辛い社会を創っているのかもしれません。
本来の生命には自分にとって当然の環境などはなく、全てに於いて今を活きているかどうか、常に瞬間瞬間を受け容れて善い時を転じきれているのかどうか、それを毎日の活き方にしているように思うのです。
私達の国は瑞々しい瑞穂に満ちた国であると昔から伝わっています。
これは生命力に溢れ、活気があり生気が漲っている様子を言います。
一昔前によく出ていたハングリー精神も、それは元気があったからということなのでしょう。
元気とは、どのようなことを心に望のか、何を期待して信じていくのかといった個性の発掘とつながっているようにも思います。
自然は諦めないのは、元気だからであろうと思います。
別の言い方をすれば、「活気」があるのです。
元々の気をどのように引き出すか、指導者の哲学がそこには必要であるように思います。
自然を観ながら、何が自然であるのか、もう一段、高みへと学びを深めていこうと思います。
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アサヒビールの中興の祖と呼ばれる樋口廣太郎さんの経営論に「熱気球論」があります。「人間は困っていることを取り除いてあげれば、誰でも重石を外した熱気球と同じように、必ず上昇する」というものです。これは、「会社の制度が、社員の意欲を奪っていないか」「上司が、部下の仕事の邪魔をしていないか」という意味で使われます。もし、浮上を妨げているとしたら、その「重石」は何か?ということを見極めなければなりません。組織や他人に重石を積まれているのか?それとも、自分で重石を抱えて落ち込んでいるのか?そこを見極める必要があります。同じ視点で、自分もちゃんと浮上しているか?!を確認する必要がありそうです。
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ここ数日肺が痛むことがありますが、仕事においても呼吸が乱れているように感じています。挑戦をして失敗して気付くことも求めた分であり、仕事に臨む姿勢に難ありと痛感しています。渦中にいるとバランスが乱れ、求めたくなりますが遣りきった後にアドバイスを頂くと、心に浸みわたるような感覚は遣った後だから実感するのだと思います。呼吸を整え挑戦していきたいと思います。
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元々の気を引き出すという考え、見守るという実践は常にその引き出す相手に実践させるのではなく、見守る側が実践する事なのだと痛感します。
元気や活気は自分自身が見守れない条件やパターンを思い浮かべても、どんな条件でも左右されないぞ!という覚悟からも生まれるのではないかと感じました。頂いている機会に尽力する豊かさを味わって行きたいと思います。