一般的に人は判断するときには、右か左かという思考に囚われることが多いものです。
例えば、良いか悪か、正しいか間違いか、できるかできないかという二者択一で判断していることがほとんどのように思います。しかし本質を捉えようとすれば、そのどちらかではなく真ん中や間、中庸のように右でも左でもない芯を捉えていかなければならずなかなか判断力が磨かれるのには時間がかかるものです。
それは人間が、自分の都合のよい方ばかりに囚われてしまうことだからだと私は思います。
自分にとってどうかというのは、一番考えやすいものです。もしくは相手にとってどうかと思う時でさえ、その時の判断は自分の都合側の相手のことを考えてしまうからです。
ここを本質で考えるということはどういうことかを少しだけ深めてみます。
本質で考えるというのは、その右も左もないものです。だからこそ、何が本当かということがまず理解できなければなりません。そのためには、本当は何かということを突き詰めて考えてそこがまず観えてこないと分かりません。
そのためには、思考の訓練というものが必用であろうと思います。まず本質とはどうなっているのかを考えるという練習のことです。
例えばその具体的な練習方法は、毎回どのような小さな判断であっても目的や理念から考えるという習慣を持てるようになるということです。
仕事で言えば何かの資料作りから営業企画、また多様な業務に至るまで面倒でも毎回理念や目的に照らしてこれは何か、なぜやるのか、何のために行うのかを常に意識して取り組むことで本質を捉える力というものは育ってきます。
本来、本質というものは心が観ているもの、捉えているものを欠かさずに現実の世界で調和させつつ取り組んでいくことに似ています。
実践が多いところの方が本質的であるのは、その中心を捉えているからに他なりません。何のためにここまでするのか、その何のためにがしっかりしているからこそ本質的に働いているということになるからです。
思考の訓練というものも一朝一夕に出来上がってくるもものではなく、自分の狭い視野を乗り越えて、目的や理念からの視野で取り組むということが身に着いてきてはじめて為せるように思います。
せっかく取り組むのであれば、砂上の楼閣を創るのではなく、盤石な土台に立つ理想の宝閣創りに近づいていくような努力をしていきたいと願うものです。
本質を理解すれば、二者択一ではなく「近づいている」や、「ものになってきている」、「実践している」「シンプルになっている」というような言葉に変わってくるように思います。
理念や目的を定めることで、協奏し和する文化を拡げていきたいと思います。
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焦って「白黒つけたくなる時」は、「善悪」「正邪」などの『二分法』で判断しがちです。また、細部にこだわると『分析』したくなりますが、これらの発想では、いずれも「本質」には迫れません。やはり、「目的」や「理念」から洞察しなければ「本質」はつかめないでしょう。ただ、この洞察力は、「本質は何か」と考える訓練を積み重ねて身につけるしかありません。「本当に本質がつかめているか?!」を常に自問し続ける必要があると感じます。
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人との関係でも自分か相手かという二者択一になる傾向があったように思います。自分を優先して勝手に振る舞うか相手を優先して尽くすか。どちらにせよ自分と相手は表裏一体であり一方だけに影響を抑えることは出来ないのだから、互いが快く思えるように行動すべきなのだと反省しました。目的や理念からの実践を一つひとつ積み重ねていきたいと思います。
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理解をしても納得したかどうかは別にあり、分かる以上に納得して動くことで本質に近づくのだと気付かされました。本質を掴むことと本質を理解するとでは大きな差があり、思考・行動も納得したところから動き考えることを大事にしていきたいと思います。
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まだまだ、頭で分かった気になって、実際の行動が伴っていなかったと痛感しました。本質は、常に手で握っていなければならず、答えを出す、分かる、となって、意識を出た結論に持って行った時点で危険な事なのだと気付きました。いつも、意識を切らさずに居たいと思います。