優心に学ぶ

何かの機会があるとき、人はそれを心で感じているのと頭で感じているのでは感じる事の真偽が異なってくる。真には順序があり、ほとんどが感じてから考えることであり、考えてから感じるのではない。

まず日頃の心の姿勢や心の態度、心の置き所が何処にあるのかを自覚していなければそれはわかることはない。

日頃心が感じる方を優先して生きようと決めたなら、まず心からあるものを探していくように日々に前向きに明るく、そして感謝と御蔭様でいるように自らを律していなければ心が発動していくことはない。

日頃から自分の満たせない心の欲求や欲望をいつも求めていては、後ろ向きに暗くなり、心身ともにないものばかりを探して疲弊していきそのうちに心を使わないでいい方でいようとして進んで忙しい日々を送ろうとする。

人は、まず心の在り方から変えなければ幸福になることはない。

仕事でもそうだけれど、自分が今、どれだけ有難い恩恵を与えていただけているのか、信頼できる仲間にめぐり逢い、人として正直に生きる上司と学び合え、たくさんの素晴らしいお客様によって自分を必要とさしめてくださる、五体は満足であり、家族はまだ現存して絆もある、そして経済豊かで物が不足することのない環境があり、病気もせず、そして死ぬこともない、等々。

これだけ挙げても自分がいかに、働けるということや働くということによって幸福を得られているか、それを心底思えば、次第に心から「有難う」「ご苦労様」「御蔭様で」という言葉が日々の態度に顕われてこないだろうか。

これができないのは、あまりにも自分が今幸せすぎるからであると私は思う。不幸になったことがない人は、幸せになる必要がない。不幸を知らないから、幸せになる方法もわからないように実は、今不幸だと満たされず思っている人ほど今が一番幸せであることが多く恵まれすぎるからないものを強請ろうとするのであろうと私は思う。

客観的に自分を見つめれば、心の中で欲しがっていたものは実はそのすべては何者かの偉大なものにより与えられている。それをいつまでも活かそうともせず、いつまでも不平不満で捻くれた心で一向に素直になろうとはしないのが真の不幸なのである。

これは、満たされているからこそ満たされないということであろうと思う。
そういう人は、内面と外面が切り替わり調和するようないくつか自己変革の峠を越す必要がある。

一つは、真に満たされることはできないというほどの不幸に遭遇してみることでもう何もできないというところから探せばまだまだあるではないかと思えるような天機に回り逢うこと。人生で、幸福を願っていれば多くの周囲の思いやりや優しさに触れながらいつかは手に入るであろうとも思う。

もしくはもう一つは、志を偉大な高さまで高め、もっと多くの人たちや世界の人々の平安を物心から満たしていきたいと願い自分を天地人一体になり謙虚に使っていくことではないかと思う。

人は、刷り込まれるものなのだから安易にそんなに真理に近づくための方法などはない。遠くにあるものや外にあるだろうと勘違いしいつまでも探すのではなく、足元であったり内にあるものを探していこうとする際に自分の心に出逢うのであろうと思う。

すべては必然の中にその必然を感じる心が動くままにその今を大切にしているかで時間の差がでてくるものだ。いつまでも優柔不断にあるがままに流されていては心を台無しに生きることになる。本当にあるがままに生きるとは、来ているものや持っているものを真剣に受け取りそれを活かすために心が決めて動くことであり、そうすれば世界はこの今からでも次第に変わっていくのだ。

しかしそうはいってもその人と人なりのかけたい時間もあるのだから、何百年先になろうとも得たいものはいつの日かは得られるのだと思うから安心するとよいのかもしれない。

幸せになってほしいと切に願えど、時機や天機は本人次第であると思う。だからこそ出会いは本当に不思議で素晴らしい。私も、この今、此処の周囲にいる人たちや環境すべてとのかけがえのない一期一会であることは真実。

私は、周囲の人や世界を心から愛している。だからこそ、周囲の人たちと共に本気の人生、本音の心で接して、愛を満たして愛を溢れさせ、子ども達にもその愛の循環を行動で示していきたいと思う。

子どもの心にはいつも有難いことを教わってばかり。こんな私ですが、まだまだ色々なことを教えてください。優しくありたい自分の心を自分がいつも大切にしていこうと思います。

本当に有難うございました。

  1. コメント

    心一つで環境が一変したことは人生の中でもそう多くあるわけではありませんが、私は昔、父親のことが嫌いでしたし、なんて自分勝手で愛が無い人なんだろうと思っていました。
    食事の姿勢、食べ方一つが乱れると箸でたたかれることもしばしばでしたし、そのほかのことについても幼少期はその大切さに気付くことが出来ませんでした。
    しかし、父を失ってみて心の矢印の向きどころが自分にしか向けられなくなったときに、一つ一つの有難さやに気付けたどころか、そういったしつけ的な部分だけではなく物事の多くが有難いことで満たされていることに気付かさせて頂いたことがあります。
    そういった気づきも、有難いことですが、その気づきをいつまでも大切にするかどうかは自分次第であり、元々そういった気づける環境は常にすべてそろっているにもかかわらず、自分で選択して捨てているのだと思います。
    そうい自分を受け入れ、一つ一つのことを前向きに有難くいただいていきたいと思います。

  2. コメント

    多くの気付きを頂いてもそれをどれだけ受け取ることが出来るのかは自分次第であり、どう実践していくのかも自分次第であると思いました。大切と思いながらも日々に流されて優先出来ない様であれば本当に自分が理解出来ていたのかと反省させられるのですが、本当に気付いたのであればそれを信じてまずはやってみるということが大事な様に思いました。やっていく中で自分の力及ばずのところで迷惑をかけてしまうことも多々あるのですが、変えるべきところが自分の中で多くあるのだと気付けるとまだまだやるべき事が多くあり、先が開けてくる事には有難いものだと思います。どうしたらよいかと躍起になって外に探していくことばかりをやってしまい、自分の足元に沢山あるのだということを感じ取らないといけないのですね。何のために遣っているのかと大きなことを見据えつつ、目の前にある一つひとつの直すべきところを正していきたいと思います。

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