昨日、リーダー研修があり最後の話で藤森代表から「主人公」と「伝承」という役割の話がありました。先祖が真摯に生きて今の自分があるからこそ、尊い御役目が自分にも必ずあることをもう一度よく考えるという機会になりました。
日常が当たり前になっていると自分だけで物事を考えますが、今の自分があるのはどのような御蔭であるのか、連綿と続いてきた風土や結縁、生死のめぐりのなかで受け継いできた魂やいのちの存在を実感します。
そういう自分をそういう今をどれだけ愛しく大切に生き切っているかを思うのです。
語り継ぐものに出会うとき、受け継ぐ側の覚悟を省みます。本気で生きているかというのは、本気で死んだ人たちの積み重ねの上に自分がいることを決して忘れないことかもしれません。
それは、今を真摯に生きぬくことで自分の御役目に感謝していることかもしれません。
今、自然農然り、古神道然り、大和魂然り、一つ一つのことを紐解いて自然からの手ほどきを受け学んでいますがこれも受け継ぐ側の覚悟があってはじめて語り継がれていくものです。外来の思想や、人工智が高く評価されてそれすらも誰も気にしないくらい浸透した昨今では、かつての風土の思想や自然智の価値を新たに実感する人も少なくなってきているように思います。
先祖たちがどのように生きてきたのかを知ろうともせず、周りだけをみて今までもずっと今のような生き方だったのだと思い違いをしてしまうことがほとんどです。戦争のことでも、私の祖父の代の話であったのに、受け継がれなくなるとすぐに感覚がマヒしているのが分かります。
これだけ継承していくことや伝承するということは、その時代の生き方の反映であり、そこに語り継ぐものと受け継ぐものの価値を等しくしていないと互いに成り立たないように思うのです。そう考えてみたら、それぞれが真摯に真剣に主人公として生き切った跡にこそ最も価値のある口伝が存在するように思います。
神主とは私の中では、自然のバランスを司る者、つまりは一切の無駄というものがない”しくみ”そのものになる者と定義していますが、これも受け継ぐにはそれ相応の覚悟があって先祖の叡智を直観するのでしょう。
刷り込みに誘惑されないで正しく受け継ぎたいという畏れと尊敬と謙虚さがあってこそ伝承は成り立つのです。先祖の素晴らしさを思うほどに、自分の襟を正すことばかりです。頭で理解することではなく、語り継ぎ受け継ぐという意味、つまりは真実の思想の継承なのです。
その人の時代があるとき、自分の時代があることに気づかなければなりません、同じ生き方をしても同じ時は共にできません、だからこそ自分の代を真摯に生き抜かなければなりません。そこには思想を受け継いでそれを正しく新しくしなさいといったメッセージと意志を感じました。
「飛鳥から江戸は旧邦なれども、その智慧は維新なり」
これは今年ご縁があった保田與重郎の言葉です。
そして中江藤樹の訳した孝経こうあります。
「旧邦を興して天命新たなり」
時代が変われども、受け継ぐ人がいることを教えてくださいました。思想など目には観えないものかもしれませんが、心に響いたことを心に刻み、志を貫徹していきたいと思います。
大事なことを直観しました、いつも本当に有難うございます。
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歴史は、勝者やその時代の支配者によって書き換えられる可能性があります。従って、教科書で勉強として学ぶのではなく、生き方や在り方を親から子へ、師から弟子へ、先輩から後輩へときちんと語り継ぐ流れを絶やさないことが重要です。誰かではなく、自分がそのバトンを受け渡す役の一人であるという自覚と、自分の代でその正しさを曲げないという責任感を持っておきたいと思います。
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先生方が上と下のパイプ役と何度も表現をされていましたが、上・下どちらもおり学び伝えが同時に出来る一握りの恵まれた方たちにお会いする機会を頂きました。年齢云々ではなく、その文化で常に刷新していかなければいずれ廃れ周りに迷惑を掛けるのだと感じました。日々今の役割から受信と発信を繰り返していきたいと思います。
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本気の死が眼前にあるからこそ人生を本気で生きた祖先がいる。その御蔭で今の自分があるのだというこを大人になってから深く実感し、大いに恥じました。祖先の努力した証を何も継承して
来なかった私ですが、子孫たちのためを思えばこのままではいけないという感情が湧き起こります。自分の心の中に宿る祖先の魂と共に、今からでも出来るのだと信じてこの道を突き進みたいと思います。
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皆が主体的という捉え方は受け身かどうかではなく、その時のそれぞれの役割を自覚し、やり切っているのかということを問われているように感じます。人類としての全体最適を思うと、カグヤの役割は大きく、ワクワクとドキドキが入り混じりますが、自分の今をしっかりと踏み固めて行きたいと思います。