武士道の死生観の中に「残心」というものがあります。
辞書にはこう書かれています。
1 心をあとに残すこと。心残り。未練。2 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。(goo辞書)
これはそれぞれの解釈があるのかもしれませんが、この心構えというものが何かというものが何よりも大切ではないかと思うのです。
そもそも残心とは読んで字の如く、心を途切れさせないという意味で使われます。何かのことが終わったとしても常に心を途切れさせないという意味ですが、私の意訳ではそうではなく常に心を切らすことはない状態を維持し続けるという意味です。
例えば、お仕事でも生活でも家庭でも心を常に配り続けて注意を切らさない、油断をしないで心で物事を観続けている状態、言い換えればいつも死を覚悟しつつ判断は常に死に照らして物事を観ている状態のままの自分でいるということです。
心をきらさないというのは、頭で考えている最中であってもその心は覚悟を決めているということです。悔いのないように今を遣り切っていく生き方を続けていき、その中で全身全霊の全部を出し切っていくような生き方を続けていることが一つの残心であるように私には思えます。
そしてもう一つの残心でいう余韻の意味は何かといえば、必死に真心を尽くして取り組んだあとに自分の力だけで遣り切らせていただいたのではないと感謝の心に満たされ続けて活きているという意味ではないかと思います。
つまりは必至で真心を尽くして尽力するとき、自分の思ってもみないような最善の結果、奇跡のような巡りあわせや出逢いに感動し心を深く打たれるときにしみじみと心の平安と幸福がその場を共有する人々全体と味わうときの感覚。
「自分が遣り切ったのではない、神仏のご加護や御蔭様が入って遣り切らせていただけたのだ」これは勝負の跡でもそうで、心から負けたくないと願い必死に努力するときその後に訪れるのは「自分がやったのではない、(何かの恩力)で勝たせていただいたのだ」と感謝に満ちるのです。
そしてその時なのです。
自他一体の気持ちが起きてきます。それはもしかしたら相手は自分だったかもしれないという直観、自分がこの人だったのではないかという結びの境地に入るのです。これらの気持ちはとても言葉で言い尽くせないのですが人生の道の真の歓び、楽しみなのかもしれません。
自他一体という言葉は、頭では理解できないのはそれは生き方や生きざまで感じる言葉だからかもしれません。必死の努力を続けていく中でどれだけの奇跡に出会うか、真実に出会うか、ご縁を尊び、一期一会の今を生き切るときにのみ学べるのかもしれません。
自分とは自他ではなく自自であり、他は他ではなく他他なのかもしれません。真心や思いやりが通じていけば心は一体になっていくのでしょう。
この武道芸道の「残心」はかんながらの道の大切な心構えと同じです。
より真心を籠めて、心を澄ませ清め続けて八百万の神々とともに歩んでいきたいと思います。
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親は、子どものことをいつも思っており、どんなに自分が大変なときでも決して忘れることはありません。常に自分のこと以上に心を砕き、何かあればいつでも身代わりになる覚悟もできています。また、過去も知った上で未来のことにも配慮して現在を見守っています。このような「自分のこと以上にその人生に責任を感じ、真心で見守ろうとする姿勢」こそが「残心」であり、「自他一体」へとつながる境地なのでしょう。まずは、日々、自分の今日明日ことで心を埋めてしまわないようにするところから始めなければなりません。
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今日は今日一日を振り返り、さて昨日一日はどうだったかともう一度振り返ると、昨日の時点では一日よかったと思っていましたが、もう一度振り返るとまだできたのではと思います。昨日一日納得したことを今になって覆すことは出来ない分、今明日に向かい出し惜しみするなと戒めていきたいと思います。
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心を途切れさせず死を覚悟する程に日々を遣りきれているかというと、まだまだ不十分だと感じます。状況は常に変化していくものだと考えれば、何時でも真の逆境にいる時の覚悟で全てを出し切り、自分を鍛えていきたいと思います。
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週末を通じて家族との対話を鑑みてみると、させて頂いているという実感を強く感じる瞬間があります。母や子ども達、妻、それぞれのやりたい事や協力して欲しいことに時間を使っていると、気が付くと奇跡のように、皆が喜ぶ場所と巡り合わせていく連続はそもそも、私がやりたかった事なのかもしれないと感じました。まだ、私はそういう意味では偏りが強く、視野も狭いと感じます。自分自身をもっと全体に使って行きたと思います。