日々に学んでいると、新しい発見に満ちています。そういう日々を過ごしていくことが好奇心を育んでいくのかもしれません。
例えば、新しい自分というものに出会います。そのキッカケは誰かから認められたり褒められたり、もしくは指摘されたり、指導されたりしたときに気づくものです。
何も誰からも言われず、自分だけで理解するのは限界があり自分の都合が入ってしまって盲目になってしまうものです。そういう時に、素直に言っていただける人がいること、正直に伝えてくださっている存在があることが何よりも尊いと感じます。
自分というものはどのように仕上げていくのかも自分次第です。自分の人生も自分のドラマも自分の生き方もすべては自分次第で如何様にも変化させていくことは万人に与えられている自由です。
人間はどのような環境下でも私心が出過ぎると、周囲との関係に軋轢が発生したり、偏り過ぎたりしてバランスを崩してしまうものです。その私心をどのように修正するのか、どのように調整するのか、そこには人の意見を素直に聴ける力に左右されています。
そしてそこを一番邪魔するのは、知識といった先入観ではないかと私は思うのです。
それを刷り込みとも言いますが、刷り込みがあることで素直にならず、刷り込まれたことで正直が分からなくなる、本来は子どものときに学んだ学び方を、どこかですり替えて別の学び方を学んでしまったということなのでしょう。
自然の学び方と人工的な学び方、その両輪を合わせていくには自然の学び方を優先し、その後に人工的な学び方というように本来の学び方を続けていくことなのでしょう。
畏れを抱きつつ、慎み学ぶというのは古来道を歩んだ先人たちが指導した学び方の極意です。
そうやってまず学ぶ前に、その学び方を学ぶところからはじめるというのは自分自身の無意識下にある刷り込みをまず疑い、自分の刷り込みを取り除くところからはじめるという意味なのでしょう。
私も、師に出逢い師から本質を学び、本質に気づくことで自らにある刷り込みに気づくことができました。その刷り込みをひとつひとつ取り除くうちに、本来の自然、赤ちゃんの頃の学び方を思い出すのです。人間として学ぶのは、万物全てにおいて丸ごと学ぼうとする力、発見していく歓びと発明していく幸せ、つまりは新しい自分に出会い続ける価値があることを自覚するのです。
刷り込みというのは、当たり前のところにありすぎてそれが観える人になるか観える人から指摘されるかもご縁のように思います。真理にあって真理に気づくのもまた人間のご縁ですから縁尋は本当に奇妙なのものです。
だからこそご縁をいただけるように願うように、自分から自分の価値を日々に再発見し再発掘していくことは刷り込みを取り除くことと同様に何よりも大切な学び方のポイントであろうと思います。
日々、新しいものに気づく感性を、流されずに楽しむ好奇心を甦らせて新生し続けようと思います。忙しい時こそ、仕事の量が多い時こそ、学ぶ機会が沢山来ていることに感謝し、どんなことも見逃さず遣り切っていきたいと思います。
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知らず知らずのうちに「最短合格」「簡単・わかりやすい」「攻略ポイント」など言葉の誘惑に乗った本を選んでいました。まだまだ学び方を学んでいないことに気が付きました。少しでも楽をしようとしていますが、気が付くと本来学び方はそういうことでないことを思います。気づいたことを変えていけるよう取り組んでいきたいと思います。
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人や自分の新たな良い一面を知ると嬉しくなります。明るいとか優しいとか色々な一面がありますが、人のらしさはジャンルで分けられるようなものではなく、皆違った独自の良さがあり、それは幾らでも深めることが出来るのだと思います。学びを楽しみ新たな自分に出会えば、新たな自分はまた新たな学びを楽しめるようになるのだと考えれば、その機会をいただけることに感謝して日々を大切に過ごしていきたいと思います。
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幾ら「学んだ」と思っても、それを実践し現場に行き、自分の実践の現実が目の前にあることを「理解する」と、今の自分が学びからどれだけ「気付いた」かが見えてくるのだと昨日を見て感じます。
教えて頂いた事、学びは、実践した方々が努力の末にたどり着いた結果であり、その結果だけを学ぶのではなく、その学びに辿り着く為の努力と過程を楽しみ、興味を持ち、一つ一つの実践から「気付いて」行きたいと思います。
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これまでは、「自分の座標軸を基に、分析的に学び、座標軸を修正していく」という学び方をしていましたが、このような「自我意識」での学び方には限界があり、「座標軸」自体を捨てる必要があると感じています。「鏡にすべてを映し出すように理解する」という表現がありますが、素直にありのまま受け取れるようになりたいと思います。