長いこと心の在り方について書いてきたけれど、実際の人生は自分のものであるからこそ自分の人生の責任はまず自分で持つということに限るのだと改めて思う。
では人間はどのタイミングからその責任から逃げるようになるのだろうか?
それは例えば、仕事で言えば誰も見ていないからや上司にばれなければや、この辺までやっておけばいいだろうとつい本来の責任よりも言われたことだけをやっていればいいと楽を優先するとその瞬間に逃げを選択したことになる。
こうなるのは、怒られるのが嫌だからや難しい話はもうこりごりだからや、面倒くさくて自分が損したくないからなど常に自らを自らで守ろうとして起こすものであると思う。
他人から指摘されなければそれも自覚しないようになってしまっている状態であればすでに甘えの中にいることを自覚しない「逃げ癖」がついてしまっていると思って間違いない。
人は、いつも大変な方や困難な方を選択していく人が最終的には乗り越え自立していく。そうではなく、楽な方や無難な方を選択していく人はいつも自分の都合次第なのだから誰かに依存しなければ自分を守ることもできなくなる。
守られているところから自分で脱しようとしなくなると、次に自分を守ってくれる人を必死になって探そうとするようになり、いつまでも誰かの陰に隠れているときだけが安心できるということになる。これを言い換えれば甘えるともいい、自分ができるかできないかだけでいつまで待ってもやろうとはしない状態を言う。
そうやって、人生はよくよく観察するといつもそういう甘い汁や逃げ道を用意してあるものであり少しでも気を緩めればあっという間に自堕落な生活に流されていくものだと思う。
以前、ブログでで「人生とは習慣である」というような記事を紹介したけれど、善きにしろ悪きにしろ人は習慣の生き物である。自分では善い習慣だと思っていても実は悪い習慣になっていたりする。そういう人の特徴は、自分にはできそうかどうかで選択をする癖があり、そういうことを目標にして取り組むからだ。
本来、自分に克つというのは自分の意思が弱いからできそうにないと思えるようなことを選択して挑戦することであり、できそうならばそれは正しい習慣に変わったということにはならない。
自分の欲望を少なくするのではなく、欲望に打ち克つことを決めることが挑戦することなのだ。仕事で言えば、本当に大事だと思っても自分が自信がないからとできそうなところだけで勘弁してくださいという姿勢では実は何をやってもうまくはいかない。
かの松下幸之助氏の有名な法則に、下記がある。
「人生の成果=能力×情熱(やる気)×考え方」
これは、もしも本気で自分が自分の人生を納得すると決めたら成果を出さねばならぬ。内面の充実と外面の充実こそがその人の表裏一体としたビジョンを示すのだからそれがは必須項目である。
その成果には、まずは掛け算だという定義がある。これは足し算でも引き算でもなく、割り算でもない、すべては掛け算であるということ。つまりは、必ず複合的な相乗効果が働くのがこの自然界であるということを意味する。もしこれに、どれかを怠りゼロになればすべてはゼロなのである。だから成果の上がらない人はいつもゼロになるから面白くなく続かないのであろうとも思う。
まずは、その能力とは持って生まれた自分の強みを活かすことである。そしてやる気とは、最期まで遣り切ることである。最後の考え方とは、全てから学ぼうとする真摯な心の姿勢のことをいうと私は定義している。
このどれか一つからでも逃げれば、掛け算なのだから成果は上がらない。
何が上手くいかないのかは言い訳を聞けばよく分かる、能力では自分にはそんな才能がないや環境に恵まれないからという、やる気では、自信がないや、やってみたことがないからともいう、そして考え方では、やったんだけどねや、もっと得るものがあることをしたいなど、人は都合が善いもので笑ってしまう。
そうなっていること自体が、逃げ癖がついているということに気が付くところから人生の設計図は書き直すことができるもの。そしてそれにはまず、メンターというものがあることを知ることである。
メンターとは何処にいるものなのか、私は勿論、師友は存在するけれどそれはパートナーのようなものに定義している。メンターとは、私にとっては「我以外皆わが師」や「他人は全部自分の鏡」というあれのことを定義する。
嫌だなと思える事から、恥ずかしいからやめようと思い、これは素晴らしいなと思うものから、それを真似しようという風に、自分以外には学ぶものがいっぱいある。
そういうものから真摯に学ぶことこそが、考え方なのだと私は確信している。
相手ばかり見て、翻弄されるよりも相手を自分だと思って思いやりを持って自分を省みる事の方が価値があるではないか。自分はそうして生きていきたい。