人は有事になるとそれまでの感情的なものとは別の良心が働き他人に優しくなることができる。誰とどのような人間関係の軋轢があったにせよ、共通の課題は問題があまりにも大きいとそれまでの問題はほとんど気にならなくなったりもする。
以前、子ども達の未来のことについて語り合っていた中で人はどういうときに団結するかという議論になったとき結局は共通の巨大な敵を作れば仲良くなるという話を聴いたことがある。
世界では、問題が起きていく中で秩序が乱れそうな相手を探し出しそれを共通の敵としてしまえば他の敵だったものたちとその期間は手を取り合って協力をしようと優先するという考え方だ。
以前のテロのように、世界の共通の敵テロと戦おうと呼びかければ今までいがみ合っていた国同士も多国籍軍という形で力をあわせて戦ったという方法もその一つであると思う。
そしてその敵がいなくなれば、また元通りに自分の利権を優先しいがみ合っていくようなもの。
それは一時的な双方のメリットの引き出し方での交渉方法であり、本質的に協力をしようという話ではない。
本来、人は自分の中に共通の敵を持つものでありそれを教育や保育によってその敵というものを自分の中に定義しそれをそれぞれが生涯闘って自分を練磨し修養していくものであると思う。
そういうものは、人としてどうあるべきかという倫理観や道徳観のことでありそういうものとそれぞれが皆で自分との闘いをし克ち続けていこうよという働きかけが王道なのである。
その中で、人は皆弱く、自分に負けそうになるからこそ支えあい助け合い、そして補いあって大きな優しく強い社会を創造していくものだと思う。
今、世界ではそういう自分との闘いを避けるためにあえて外側に敵を生み出そうとしそっちに人々の目を向かせて好き勝手にするというのは結局は自分の首を自分で締めることになることに気づいていないだけなのだとも思う。
自分の欲望を管理するということは、自分に克つことで偉大な自然や偉大な人間愛に生きるということであり、それが本当の意味での愛や友情、絆や真実を掴む方法であるのだ。
子ども達は、仲良くなるということは自分自身が自分に打ち克つということを皆でやることだということを自然界の見守りを通じて、自然から学び自然に気づく機会に出逢ってほしいと思う。
あの花も、あの木々も、じっと耐えて待っていられるのは自分との闘いに克っているからでもある。そしてそうした自分との闘いの後に、信頼や信用、そして大きな愛を育む関係性が世界へ広がっていくのだ。
何でも自分の思い通りに人間がなると傲慢になってはいけない、様々な出来事を通じて私たちは真の意味で学び続けて正しくあるようにしていくことが万物の霊長としての使命とも感じることだとも思う。
私も、そう考えると恥ずかしいことばかり。子ども達の未来や社会を現実的な理想のものにするために足元である自分によく耳を澄まし、もっと自分に謙虚に誠実に生きて示していきたい。
コメント
自分の外に敵を作るのではなく、自分の中に敵はいるのだという考え方に
とても共感しました。経済も、多くの宗教も敵は外にあり、また神も外にあると
唱えているように感じますが、私たち人間も自然界の一部であるのだから
自然そのものなのだと感じます。自分自身は神であり、そして自分自身が敵であるということを感じます。
全ては自然の循環の中にありながらも、自我が自分を苦しめている様に感じます。
自我と向き合い、その自分に勝ち、自分らしく生きるということが、
仲間となることであり、平和へとつながるのだと学ばせて頂きました。有難うございます。