種に学ぶ

自然農を実践し、畑の種を観察していると色々と発見があります。

一昨年の冬に元気に育った大根をそのままに花を咲かせましたが、そこから自然に新しい今年の大根が生えてきました。それを観ていると、梅雨時期のたくさんの雨や夏の鬱蒼とした草たちや虫たち、多数の種たちの中でよくぞ此処で生えてきたものだと感慨深くなりました。

種というのは、不思議なもので自分が出てくるタイミングを自覚しているように思えます。それは季節だけではなく、今が自分の出るときだと知っているような感覚ではないかと私には思えるのです。

沢山の種がそれだけ長い時間、待っていることができるということに感動するのです。

土の中では、その他、何年も何年も掘り起こされるまで眠っている種もあります。自分が生育できる環境が顕われるまでタイミングをじっと待っているのです。時には、季節外れに生えてしまったり、時には、環境が悪化しているときに出てしまったり、他の種が先に芽吹けばそのまま種のままで居続けたり、そしてそれもまた自分の出番であり、自らの御役目を謙虚に受け容れ、種の維持、子孫として自らが道を切り開いているのです。

植物や虫たちは、種の保存、種(シュ)というひとまとまりで生きています。だからこそ、そのひとまとまりが自分そのものでありその種(シュ)を遺すために皆で協力して自分を生き切るのです。

この自分とは役割であるということが、ここから悟れるのです。

一見、評価の世界で生きていたら無駄死にではないかとか、犠牲になったとか、いろいろと論じますが本来は、そのひとまとまりでいのちであり、ひとまとまりで生き残っているのが私達です。

つまり違いもなく、自他もなく、みんなで役割を持ち生き切ることで一つのいのちであるということです。これは菌類も同じで、みんなで種を遺そうと協力し合い深い絆の中で共に活かし合い助け合い未来そのものになるのです。

種ということから自然の全容が顕現してきます。

もっと大きく、もっと全体で、もっと役割というところから自分を見つめていきたいと思います。
種に見習い、生き方から見直していきたいと思います。

  1. コメント

    天地自然に秘められた智慧を想うと、これまで学んできたことの偏りと私心からの学びの虚しさを感じます。今年は、天地の経文から、素直に、自然の道理と誠の道を学び直してみたいと思います。また「役割」という視点から、自分の生き方を探究したいと思います。

  2. コメント

    「種を学ぶ」のではなく「種に学ぶ」。何からでもどこからも学ぶ姿勢そのものを素直に謙虚に取入れて生きたいと感じています。朝は寒い、夕日がきれいなど感覚的に感じられる機会を自身で奪うのではなく、ある機会を活かし一つひとつを学ぶとしていきたいと思います。

  3. コメント

    聖書には「何もしなかったという罪」 についての記述があると聞きます。自分には自分にしか与えられていない尊い役割・御役目があるのに、それを果たさずに惰性に生きるのは、種にとって非常に勿体ないことなのだと今回のブログを読んで感じました。自分の心に正直に生きれば必ず世のお役に立てるのだと信じて、自分の人生を遣り切りたいと思います。

  4. コメント

    例えば、自分ではなく家族の単位で考えたとき、子ども達や家族が助かるのであれば、自分が生きた意味があったと想い、自らを犠牲にしようと覚悟を持つことを創造することは出来ますが、
    その「単位」を家族からもっと広げ、「人間」「自然」「全て」と出来るかというと、今はまだその自他一体の境地にたどり着けていないと感じます。しかし、眼前に起こる事実や法則は実は自分と外とに隔たりがないことを教えてくれていると感じます。この事実をまるごと受け取ることが近道なのだと感じますが、着実にこの道を歩むことをまずは大事にしていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です