ここ数日の報道の在り方や国民のリテラシーの低さにとても悲しい気持ちになっている。特に原発における事故についての、前後の対応とその危機感の低さ、問題意識の温度差には空しさというよりも義憤を覚えてしまう。
今は、日々、深く祈りこれ以上犠牲者がないようにと心を籠めている。
こういう体験もはじめてなのでびっくりしている。正しい情報とはこうも歪めていけるものなのかと思うとあまりにも驚くがまるでワイドショーのように事件を語り、まるで対岸の火事のように語る評論家たちが現実の世界ではないことのように人々を煽り立てている。
その様子だけを見ているとあのイソップ物語にある狼と羊飼いのように嘘で塗り固めながら人間心理を逆手に取り視聴率を稼ごうとしている。自分が実際にそれを見たわけでもなく、実際に自分のことでもないのに、さも自分はこうだやああだなど好き勝手に人々の気持ちを誘導しようとする。
そもそも実際に現実的に起きている事件は、ワイドショーではない。いやもうはっきりというが見世物ではない。それが現実にはあってはならないようなことが起きているとして、それを面白く語るなどとはもう倫理道徳などとの話の範疇ではない。
それに一緒に出てくる人たちのあの話しぶりは、一体何をしたいのだろうかと思ってしまう。何のためにそんな研究をし、何のためにそんなことを学んできたのか、ここで活かさずにどこで活かすのかと疑うほどでまるで単なる評論家のようになっている。いやもうはっきりというが、これではまるで他人事である。
「見世物と他人事」というコンビが手を組むとこうも人間は簡単に騙されるものだと実感することができた。人を騙す方法なのだろうけれど、最初は見世物になるような派手でインパクトがあることをさもそれが重要であるように語り危機感を煽る。そうすると深刻になるから、そこから他人事のように話をしてちょっと安心させておいて無責任なことをそれぞれが言いたい放題に言う。
それをテレビで四六時中見せられていたら、どんな人でも洗脳されてしまい自分の頭で深く考えようとはしなくなりその番組に依存していくようになるのだろうとも思う。
また自分で考えない国民の方も、そういうメディアをあまりにも信じすぎる事とまさかそんなことは起きないだろうと隣や周囲を見回して安心する方にばかりを力を入れる。平和はいいのだけれど、平和ボケというのはあまりにも危機感がない。
本来、危機とはこれ以上最悪なことはないだろうかと考え抜いたことで生まれる責任のことを言う。それを最初から、きっと大丈夫やそんなに大事件になるはずはないだのなぜか先に安心しようとして最悪なことは考え抜こうともせず楽観的になっている。
しかも楽観的になるだけではなく、何もしていないのに「なるようになる」や、人事も尽くしていないのに「天命を待っているから」などとも言う。これは一体どういうことなのか?
こういう大事な判断は、頭でっかちにするのではなくどうやって命を守ろうとかという生死の極みで行う判断なのである。しかし、命などとまで大袈裟だと言われ、仕事があるからや、会社が休めないなどとも言う。
では、家族が危篤であるや、誰かが亡くなるや生まれるというようなことも同じく仕事があるからや休めないなどというのだろうか?日頃はそんなことはしないのに、危機に対して非常に弛緩していることはそれこそが本当の危機ではないのか?
別に煽っているわけではない、煽っているのはこういうことを危機だとしない周囲が煽っているだけである。有事の緊張感を煽りというプロはいないし、一流の企業人も職人も大事なときは真剣なのだからピリピリするのである。
それを有事の時に、あまりにも弛緩していたらそれでは大切な命をどれだけ守ることができるのだろうか?
私たちは、もっと自分に責任を持つべきであると私は改めて思う。そうした生き方から危機を予測し準備する姿勢が生まれ、そういう姿勢からピンチをチャンスに変えていくものになるのだ。
自分で考えるというのは、もっとマスコミや報道、その他の評論家の意見に右往左往するのではなく心の声に耳を傾けていくことをいう。もっと大切なものを守っている自覚を持ってほしいと願う。
最後に、三人の子ども達に一番大切なものは何ですかと質問をした。
すると全員が即座に、神様から授かった
「いのち」「命」「イノチ」 だよ
と言った。
私も同感した。
どこかのニュースのように命を投げ出すことは決してヒーローなどではない。
皆が大変だから一緒に死ぬ方がいいというのも自己犠牲ではない。
そんなことをすることはとても恥ずかしいことだと本人も心の奥底では気づいているはずだ。
人命よりも重いものはこの世には存在しないからだ。
どうか、みなさん、もっと自分の命を大切にすることからはじめてください。
一人でも多くの人たちが助かり、助けることができるようにと祈ります。