道具を創るというものの中にいのちを吹き込むというものがあるように思います。
変な話を書きますが道具とは、その作り手の魂とそのものが一体になったときに新たないのちが芽生えるように思います。そもそもこれは東西の思想を超えて、自分が創るというものにポリシーがあるかどうかという問いがあります。
どれだけの思いを籠めて創られたのかというのがそのものの価値であり、そのものの本質やそのものの特性をどれだけ活かし切っているかというものがその道具にいのちを蓄えるのです。
例えば、木や土や火や水、風や石を錬金によって変化させ、それがその時代を貫く本質として道具になる。その道具を使う側の魂とどの道具を創った側の魂、そして道具自体の持つ永遠の魂が折り重なってはじめて本物のいのちが新たに吹きこまれるのです。
道具を活かすというのは、その道具のいのちが観えているかということが大切なことのように思います。どれだけ長い時間をかけて丁寧にいのちを傷つけないように創られてきたか、そのものの本体が壊れないようにと最新の注意を払って育ててきたか、それはいのちが観える人だからこそポリシーを持ってその道具と自分自身が一心同体になって練り上げていくのでしょう。
今の時代は、そういう作り手の心を読み取ったり、作り手のいのちを削って行われたプロセスを観なかったり、作り手がどんな願いで取り組んでいるかという哲学を知らなかったりしたままに、単なる道具をモノとして使う人が多くなったように思います。
本来、モノにもいのちも心も魂もあります。
それは身近な小さな石ころでさえ、こちらがいのちを観ようとすれば観えますし、心を籠めていれば心が入りますし、魂も磨けば光ります。
目に見える世界だけで道具を単なるモノにするのではなく、そこにある大切なものをなくさないようにと、有難い、勿体ないという道具そのものの中にあるもいのちが感じられる自分でいることではじめて道具は生き活かされ互いに人物になるように思います。
道具を用いて活かせる人と活かせない人がいるのは、道具に対する自らの姿勢を正す人と正さない人の差なのかもしれません。今のように便利さが追及され、何でもお金で手に入る時代は、その道具が産まれたプロセスやその道具のいのちまでは感じる余裕もないのでしょう。
物というのは語り手がその物語を伝承していくようにも思います。
作り手からの願いを物語に表現して伝承していくのも伝道志の大切な御役目です。
当たり前の中にある有難い存在としての道具を、もっと大切に実感することを忘れず感謝で大事に一緒に生きて活きたいと思います。大切な道具にしてくのも自分、自物一体に自他一体に溶け込んで丹誠と真心で接していきたいと思います。
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丹誠を籠めてつくられた道具も、使う人に心がなく雑に扱われれば、その価値が損なわれます。「ものの価値」がわからなければ、世の中は、単なる「モノ」ばかりになってしまいます。自分が野菜を作ってみて、初めてスーパーに並ぶ野菜の価値がわかるように、ほんとうの「ものの価値」がわかるようになるには、「魂を籠める」「いのちを吹き込む」といった真剣な「ものづくり」の体験が必要なのではないでしょうか。仕事の仕方そのものを見直す必要がありそうです。
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日頃使っている重ね煮用の土鍋があります。野菜のうま味を引き出す土鍋と言われていますが、自分はどこまでその土鍋の力を引き出せているか、重ね煮をはじめて随分経ちますが、今一歩踏み込みが弱く道具を使っているだけで何も知りません。行動を起こますまでは誰でもすること、今一歩前に進み出て探求していきたいと思います。
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伝道士としての御役目を改めて自覚したいと思います。世の中に道具は沢山ありますが、籠められている思いが強ければ強いほど、その道具を扱わせていただけることは有難いことなのだと感じます。ただの物売りではなく、道具の真価を発揮していただくことを心掛けたいと思います。
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自分の魂を込めて磨いているか。
その道具に対する思いは日々の行動に必ず出てきます。改めて振り返ると慣れていることや知った知識に依存していることに危機感を感じます。もう一度ゼロから思いを行動に変えて行きたいと思います。