先日、種麹屋についてのことがテレビで放映されていて改めて再認識することがありました。
もともとあった野生の麹菌を品種改良して、毒のない麹菌を育てそれを種麹にして販売しているというというような内容だったと思います。そもそも麹というものも菌の一種で、野生のものには人間にとって有害な毒気もあったとのことです。それを何度も何度も人間が手入れをしている間にその毒気が次第になくなってくるとのことでした。
西洋では、人間が品種改良して管理するうちに人間にとって有益なものになったという言い方をしますが私は本来はそういうものではないように思います。
例えば、犬も昔は山犬、つまりは狼であったり、鶏も昔は山林の中に棲んでいたものでした。それを何年も共に一緒に暮らしているうちに次第に毒気がなくなってきて御互いに有益な関係になっていく。つまりは、これは品種改良を人間がして管理してきたのではなく、共に暮らして共に思いやって必要とし合って助け合ってきたということだと私は思うのです。
そもそも虫や動物、植物のことを管理するという思想は西洋から渡来したものです。本来は、これは友達であったり仲間であったり兄弟であったり家族であるように愛おしみつつ慈しみながら大切に育て合ってきた共生の間柄なのです。
だからこそ互いに思いやるうちに次第に心が溶け込んで御互いに友人以上の関係を築いていくことができたのです。これは動植物に限らず、物にだって心があるという概念であり八百万の神々、全てのものに魂が宿る、かんながらの思想の原点です。
私が活きているということは、周りも活きているということですから互いに思いやっていけば次第に仲良くなっていくはずです。これは植物同士の関係でも同じく、稲と周囲の野草と虫との関係、動物と植物と人間の関係、そこには確かな結びつきが在るのです。
こういうものを理解していけばいくほどに、如何に管理していくという発想が本来の共生関係を崩していくのかということを自明します。管理するのではなく、仲良くしていくということは共に相手を思いやりながら助け合っていくことをいうのです。
そこには有益か有害かという二者択一ではなく、一緒に生きようとする心の優先です。
よくよく考えてみると、お米も数千年一緒に歩んでいます。他にも大豆や、身近な蜘蛛やトンボ、燕や犬や猫、牛や馬、木や山々もすべて共に生き続けてきた大切な仲間たちです。
そういうものを大切にしようとする真心が、私たちの豊かな風土の由縁であり由来でしょう。
今年は「里」をテーマにしています。
里には共に暮らしてきた仲間たちとの関係が再発見できそうでワクワクしています。
祖神たちの生き方に見倣いつつ、引き続き仲間を大切に暮らしていきたいと思います。
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「管理」には、コントロールしようという意図があり、その背景には、未熟感や不信感があります。そこには、焦りとともに傲慢さもあるようです。仲間を信じ、思いやりの心で助け合い調和する「共生」とは、関係の前提が違うのでしょう。これまで、あらゆる「管理」を学んできました。すっかり身に染みついてしまっています。いったい、どのような前提で人や自然とつき合ってきたのか、きちんと振り返っておく必要がありそうです。
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夫婦も一緒にいると似てくると聞きますが、会社でも誰かの取り組んでいることをまた誰かが始めたり、同じものを食べ生活習慣が似てくるのだと思います。似てきても同じことを遣っても捉える感性が異なり、気づきが多く似ているのだけれども違うことを感じます。暗黙の了解にしない気づきを発信していきたいと思います。
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一緒に暮らす仲間という言葉を見て人間の存在しか思い浮かばなかったのは、既に自分自身が刷り込まれている証拠なのだと思います。特に子どものことを考えると周囲に虫や動物は本当に少なく、これでは虫嫌いや動物を怖がるのも当然だと感じます。思いやりや共生の気持ちがもっと育つよう環境や意識を変えていきたいと思います。
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子どもは、トミカやぬいぐるみ、タオル、毛布、様々なものに対して、語り掛け、大切にし、共に寝て、食事をしています。その姿には、やはり活きている事を信じ切っている様に感じます。同じように見えるものにも、ひとつひとつ、かけがえのない存在が宿っているのだと思うと、見た目で決めつけるところや、過去のケース、体験から決めつけることが、かけがえのない存在を見えなくさせるのだと感じます。いつもゼロベースで心を込めて対話し、イキイキとして行きたいと思います。