情報リテラシー 自然の叡智

今回起きたすべてのことは「人災」というものの本質をよく考察する機会になった。

人災というものは、すべては人の「心のない行為」により行われるのは説明するまでもない。ニュースを見ていたら、そういう心にもないことを語り、心のないところばかりに注目すれば誰でも疑心暗鬼になることもよく分かる。

流言という言葉は、私の定義では「根拠もないのに噂を信じて流すことを言う」ことだと定義している。出所が何処で、どのようなことを言っているのかというものを真摯に判断するには智慧が必要になる。

その智慧とは、自分の持てる経験や体験などを通した叡智の総力戦ということになる。

私の場合の智慧では、最初と最後は常に自らの直観を信じるのだけれど其処に至るまでは表面上をなぞるような噂話や一般的な報道などは信じず、現場の声や、最終的なリスクから考えたり、根本的なところからや、世界の広さでや、また今のタイミングはどうかや、最も優先するものや、道の学びとしてはどうかなど、もっとも総合的に判断し合理的に決断することにしている。

この「合理的」というのは、道理に適っているかどうか、天意かどうか、論理上無理のない自然なものかということになる。つまりは、一切の無駄を省いたところで何をすることがもっとも全体のために効果があるのかを選択するという力であると思っている。

そして、そこからあらゆるものを潜在意識を使い総力戦で組み合わせて自らを信頼するというプロセスであるのだろうと思う。しかし同時に矛盾があるのだけれど人には運命というものもあるから結果云々ではなく、大切なのはそのプロセスでありどのような筋道でどのように学ぶ覚悟を決めるかというような諦めに近いものも同時に存在する。

きっと自然界の生き物も同じように次世代へと自分の生の糸を紡いでいくために繫がりの今を大切にしているのであろうとも思う。そもそも私たちは今の生だけを思うのではなく、私たちは46億年の間を地球とともにいたのであり短絡的に自分の短い一生の主観でのみ物事を判断するのはそもそも小さな話であると思う。

もっと偉大な観点を持つことが情報を冷静沈着に活かすための方法であると私は思う。自分の身に降り注ぐ危険のみで判断すると視野が狭くなる、この後の時代を担う子どもたちのことも考えて正しく生き残るものたちには生き残るものたちの使命と役割がある。

さて話を流言に戻せば、今の時代のように瞬時に世界中を情報が駆け巡るIT時代ではその膨大な量の情報の中からもっとも正しいものだけを取捨選択していく情報リテラシー能力が必要になる。

荀子に「語に曰く、流丸は甌臾に止まり、流言は知者に止まる」がある。

これは意訳だけれど「荀子が言うには、転がる玉はくぼみに挟まると止まってしまうように、噂やデマは知者がいればそこで止まってしまうものだ」ということを言っている。つまり本当の情報を取捨選択するには、その流言の根拠が本物かどうかを確かめられる知者である必要があるのだ。

つまり本質的に言えば流言の周囲には「知者」と「愚者」との二通りの人物がいて、他人の言うことを鵜呑みにせず自分の力で冷静にロジカルに合理的に平常心で考え抜くことができるものを「知者」といい、自分では一向に考えようとせず常に人任せにしているから不安が積もりそれを早く解消したいと入ってくる情報を条件反射のようにひっきりなしに他の誰かにも言いふらすようなことをするが「愚者」なのである。

どちらにしても、大事なのは情報を分別するだけに留まるのではなく本当に守りたいもののためにどのように情報を扱うかということが最も重要になる。なぜなら、流言の情報とはあくまで自らが納得しどのような行動をとるかのための事前情報でしかなく、大切なことは自ら今この瞬間瞬間をどうあるかという決断をするために必要な情報であればいいからである。

そして考え切り導き出した自分への問いから自らが最終的に納得したものであるかどうかというものが大切である。なぜなら、心構えとしての納得をしていない人が流す情報こそが多くの人を混乱させる元凶になるからだ。

人生においては、他人に依存せずに考えきる知者というものは必ず自ら納得をして覚悟を決めている。そうではない人は、すぐに他人の意見に左右されて無責任に見栄やプライドを守ろうと噂や嘘を流していく。

これが、流言の本質であると私は確信する。

徹底的に、自分の中で納得するまで遣り切ることこそが次の情報へのプロセスにとても大事な意義を生む。つまりもっとシンプルに言えば、自分がどうしたいか、どうありたいかということである。

それを話すべきであるのだ。

それが自分の人生に責任を持つことであり、他人の人生を見守ることである。

最期に、どの時代も同じことが起きるからこそまずその天意に従い、その地形は理に適っているか、そして人には筋道を正し、情けを与え情けに委ねる信じる勇気という感覚を私は大切にしていきたい。

どんな人災に遭ったとしても、常に過ぎ去る時に生きる私たちは常にその後のことへの覚悟を決めていなければならない。

これからのことを思えば、理念や信念への確かな筋を通していくため自らが情報発信を扱うものとしてかんながらの道にある根本に準じていこうと思う。

根本とは、物事のあるがままの姿、これが自然なのである。

一期一会

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