情報リテラシー 真実と大義

情報リテラシーと人災についてもう一つ、「風評被害」というものがある。

私の定義では、真実かどうか分からないことを本当のことを知りもしないのに憶測や推測で評論し、人々がそれによりありもしないことをさも本当のことのように感じてしまい思い込みにより被害を受ける人たちが発生することである。

これは「ありのままに本当のことを語らないこととありのままに受け容れないことから起きること」である。そして聴く方も、正しいことを自ら知ろうともせず鵜呑みにしてそれを信じ込むからである。

論語に、「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。これ知るなり。」がある。これは知ることだけを知ることとし、知らないことは知らないとする。これが本当の知ることだということという意味で、よく身近でも知ったかぶりする人たちがさもわかった気になって他人に伝えるから被害が大きくなっていくのだ。

知らないことは恥ではない、知ろうとしないことが恥だという言葉もある。そういう一人一人の心構えが風評被害を止めることであるからこそ常に軽々しくしないように自分を戒めておく必要があるのだ。

なぜこういうことになるのかの本質は、心の奥底にはいつも不安と恐怖があるからである。私でも、今のような先が読めない余震と原発事故があれば不安であるし恐れがないというと嘘になる。

生きていれば不安や恐怖はつきものだし、そういう慎重であるところから危機管理能力も磨かれていくものでもある。だからこそ日頃からそういう感情とは上手に付き合うものだであるし、私は師からも何か足元で不安があれば遠くを観て地に足を付けて酔わないようにすることだと教わったこともある。

そしてどちらにしても真実を知るということは、見たくもないものを見て、聞きたくもないものも聞く、ありのままを受け容れる心の強さが必要になる。

例えば、自分が不治の病にかかるとし過去の事例から出来る限り正確なものを分析し医師がありのままに伝えるとする。それを語る側の真実をありのままに聴く方も互いに心の強さがなければ本当のことは知り得はしない。

しかし、もしも医師がそれを伝えることを遠慮し憚り、真実をオブラートに包み隠して伝えれば聴く方もオブラートに包み隠すように理解する。そうすることが優しさであると勘違いし遠慮ばかりしていたら、次第に語る方も聴く方も本当のことを受け容れる心が萎えてきて安心してもらおうと必死になっていくものだ。

以上のように不治の病でいえば医師は今さら本当のことは言えないとし遠慮から誤魔化しになり最期は開き直るという感じであろうし、患者であれば今さら本当のことは知りたくないという逃げの心理が働くのではないか。

日本人の伝統的な徳目に「正直であることを大事にせよ」とあるけれど、私なら国の一大事や非常時には国民にありのままの真実を伝えることが正直であると思うし、それをありのままに聴く方も正直にそれを受け容れることであると思う。

最近の報道で言えば、原発事故のことにしても、津波のことにしても、報道倫理があるのか、政治意思があるのかは知らないけれど、現実的なところは隠し通していいと思っているのかあまりにも大義がない。これからどうするのか、これからどう立ち直るのか、筋道を立てて取り組むことが求められるのに今のままの曖昧な虚偽の情報を出し続けていて本当に善いのか?

私は情報リテラシーを扱う人間として言いたいことは、皆が一丸となってこの困難を乗り越えないといけないような大事には「ありのままを伝えて、ありのままを受け容れる」ことからやることであると願う。

論語に「子曰わく、過ちて改めざる、是を過ちと謂う。」とあるように間違ったと分かったことを改めようとはしないことこそ、将来への深い過ちになると理解することが真実をありのままに知る価値であるのだ。

天意という天道に対して、大義という筋を通すための人道がある。

人道支援の本質とは、大義を尽くし忠義を守ることであると私は思う。私たち日本人には、大和の心として正直を発展させた武士道が備わっているはずである。武士道とは真の忠義の心であるからこそ、国民へはきちんとした真実を潔く語り、国民もきちんとした腹を決めて覚悟を固めていくときであると思う。

私は子どもたちのためにも、自分の考えを深めていけるような実践を示し本当のことを教えてそれをありのままに考えるような教育を広げていきたい。大人が隠すようなことをしては、子どもたちの未来に互いを尊重尊敬する忠義の種が育たないと信じこれからの自らを戒め社業に活かしていきたい。

国民の一人として私も一緒に真実を受け容れて、みんなで立ち上がるためにそれぞれの立場で自立していくことを目指していきたい。

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