人は自分の見たいように見て聞きたいように聞いていることがほとんどです。それは自分の価値観の中で世界を作っているからです。そしてそのほとんどは、自分にとって都合が良いようへと解釈しています。
この価値観というもののとらわれが少ない人ほど、物事があるがままに正直に観え、この価値観のとらわれが強ければ強いほど物事は歪んで見えてしまうものです。
よく自分を変えるということを考える時、まさか自分の価値観の方を正そうとはなかなかしないものです。見てる世界観の中で、何かを変えようとはしてもそもそもの見てる世界観の方を変えてしまわないととはならないからです。
それはなぜかといえば、自分にとって都合が悪いことばかりだからです。人は自分に都合が良いことばかりに引き寄せてしまいます、例えば自分を正当化しておかないと不安だったり辛かったり苦しいと感じるからです。物事が発生するとき、自分が正しくて周りが間違っているという解釈を続けるうちにより真実が捻じ曲げられていくからです。
いくら悟ったと智を語っても、すぐにブレルのも、いくら何も考えていないと愚を貫いてもすぐに巻き込まれるのもどれも自分の価値観に執着してしまうからであるように思います。
自分の変化を思う時、如何に自分の価値観を柔軟にしていくか、思い込みを取り除くかということが肝要ではないかと思います。つまりは自分の方の価値観を見つめ、周りの人たちの価値観を認めるということです。
真理を学べば、正しいと思うことは分かります。知識が増えれば統計である程度の正しいことは理解できます。しかしだからといってそれで誰かを批判したり否定したり、もしくは受け止めないとなってしまえば自分の価値観が頑なになっていくだけです。
だからこそ正しいというのは、正直で居ること、素直で在ることというようにあるがままのことをあるがままに受け止めて執らわれないことをいうのではないかと思います。
色々な人たちがいて色々な考え方がある、自分の価値観ばかりに固執せずにそれを受け容れてみる勇気が大切なものを優先して守りたいという真心になるように思います。人は皆、自分の気づかないところを教えてくださる存在だと思います。
自分も相手も正しいという心は、正直でいる執らわれない実践を行うことです。自分の中で勝手に解釈して歪んだことをしないように戒め、自分の価値観を柔軟に変化させていくことで心を広く体もゆったりとし、執着よりも正直であることを大切にしていきたいと思います。
価値観を変えるのは、新しい人生の発見ですから楽しんでいきたいと思います。
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圧力鍋と土鍋炊きの玄米の味を食べ比べてみると炊き上がり具合が違く、いつもより水を多く含んだようでふっくらと甘さを感じます。同じ米のはずなのに使う道具が変わると味も変わるのは不思議なことですが、それ以上に玄米をきっかけに塩や他の調味料も変えようと行動している自分に不思議さを感じています。身体が捉える味に従い周りに置いてあるものに別れを告げたいと思います。【●】
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自分の見方・考え方にこだわるということは、自分の価値観で周りを裁いているということでしょう。「自我を振り回す」というのは、自分の価値観という刀を振り回して、切りあっているようなものかもしれません。まずは、刀を収め、自分も歪んだわがままな世界にしか生きていないことを謙虚に自覚しなければなりません。真実の世界は、もっと豊かなはずです。その豊かさを少しでも覗き見たいものです。そのためにも、多様な価値観を受け入れる寛容さを養わないといけません。
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節分を前にして小さな頃に聴いた話を思い出しました。ある村人が初めて山を越えて隣村の人を見た時に「鬼」だと勘違いしたという話です。相手がわからない、受け入れられないということは、恐怖となって同じ人間を鬼に見せてしまうのかもしれません。鬼は本当に鬼なのか?いつも自分の心に確認していきたいと思います。
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玄米を土鍋で炊き始めると、まずは前準備のお粥炊きから始まり、マニュアル通りにやろうとする意識を辞め、お粥の役目を理解しようとし、やってみて少し理解し、次に玄米を表記通りの時間で炊いてみて食べて理解し、と分かったかの様に感じましたが、昼にもう一度炊く時には、分数ではなく、湯気の状態を見ていくこととしました。すると美味しくなり、まだまだ、分かっていない事を感じます。分数ではなく状態をみるとすることは手間で大変ですが、これも家族で楽しんで行えば大切な過程だと感じます。まだまだ、蒸らす時に、下敷きに置いたときと、そのままの時などで違いが出るような気がします。深めて行きたいと思います。