人は誰かの体験を自分のものにしていくときは、自分の体験にしなければなりません。誰かの体験を教えてもらったからといっても、その体験を他人に語っていてもどこか自分のものではないのだから自信を持つことができなくなるのです。
人は真似をする生きものです。
真似というのはとても高度な技術が必要で、日本人はよく世界からコピーする民族と揶揄されたりしますがコピーできるというのはそのものを体得するという意味ですから、実際は本当に難しいことです。
例えば、子どももそうですが最初は身近なものを観察しながら簡単なものから真似していくものです。そうして真似をしながら実際に大人がやっているようにやってみようと思うものです。これは人間に限らず、動植物、昆虫にいたるまで周りの真似をしていきます。
そうしてその真似ができた時に、次第に真似からはじめて自分のものにしていくことがはじまるのです。つまりは、真似をすることで真似ができると自覚します。そして真似ができればそこから自分でもやってみたらその真似の内面にある本質を掴めるのではないかとやる気が引き出されてくるという感じです。
このやる気というものが出さえすれば後は自動的に発達発展していくのです。真似というものは、何よりもこのやる気を誘因するように思います。誰かの真似からやっていくことを馬鹿にする人がいますが大きな間違いであろうと思います。
真似ができるようになるときにはじめてやる気が入るからです。人間はやる気なれば何でもできるものです。これは教育の本質であろうと思います。何かを教えることが教育ではなく、やる気にさせることが教育であるからです。
真の教育は真似からというと誤解されるかもしれませんが、真似したくなるような生き方が身近にあることがより善い社会を構成していくには必要だと私は思います。多様性というのは、真似するものがたくさんある社会のことを言うのかもしれません。
飛行機ひとつ、船ひとつ、ありとあらゆる道具は自然界の真似から発生してくるものです。真似をしているうちにやる気になって翼を持ち、鰭を持ち、生きものは進化してきたのです。
この進化のコツは、やる気にあると私は信じています。
やる気こそが何よりも進化成長を促すということを忘れずに、実践を楽しんでいきたいと思います。
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日本には、ものごとを習得する段階論として「守破離」があります。この「守」こそ、基本の技法を学び身につける段階であり、ここを通らずして質の高い新しい独自の世界はありません。また、「守」の段階で、真の奥深さを知ってからが勝負でしょう。その奥深き魅力に取りつかれると「やる気」に転化するのではないでしょうか。この無限の修行、向上の道を楽しみたいと思います。
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身近に自分もあの人みたいになりたいと思う存在が少しずつ変わってきているように感じています。小さい頃は親であり、部活の先輩、芸能人等、ちょっとずつ先へ先へと目標を追っているように思います。真似したい姿は自分にはない憧れなのかもしれません。憧れが憧れで終わらないよう、本当に真似したい姿を身近なところに置き、遣るべきことを当たり前に行う姿を真似していきたいと思います。【●】
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善さも悪さも真似ることが出来るからこそ流されないよう、いつも尊敬できる人を傍に感じている必要があるように思います。特に子どもたちにはメディアに流されずに偉人の伝記などから人間としての立派な生き方がどのようなものかを自分なりに考えて欲しいと思います。私自身も先人から勇気を沢山いただきました。少しでもそこに近付き子どもたちに譲れるよう精進していきたいと思います。
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中学の部活はテニス部でしたが、我流では中々上達せず、プロの選手の打ち方を真似るところからがスタートでした。周りに見てもらい、ビデオで見てみると、いかに自分の想像と実際が違うかを気付く機会になりました。真似をしているつもりでも、真似になっておらず、そこからは、選手がなぜテニスを始めたのか、どんな練習をしているのか、なぜテニスを続けているのか、と調べ続ける日々でした。選手の生き方と準備を真似始めると自然に打ち方も似て来たことを思い出しました。真似るには真似る姿勢と見る目線を大切にしながら、丸ごと真似て行きたいと思います。