信頼

人間にはできることとできないことがある、そして向き不向きというものがある。努力すれば何でもできると思い込むのはその人だけにできる範囲のことであり、自分のできない範囲はやっぱり誰かに任せるしかない。

もしもその人に向いていれば自然に馴染んでくるようにやっていても苦ではないのだけれど、向いていなければ一向に馴染むこともなくただ苦しいだけであることが多い。

もともと人間の苦には、向いているものと向いていないものがある。向いているものの苦は苦しい中にどこか楽しいと思っているからそれをいつまでも維持していくことができる。しかし向いていない苦は永遠に楽しくなることがないから、無意識にも避けようとして避けている。

どちらにしても苦はなくなることはない。

そう考えると自分が選択しているものに対して自分がどのような本分や本性を持ちそれをより善いものへ変換し活かすためにどうするかということなのであろうとも思う。

話を戻せば、できるできないや向き不向きから人に何かを頼むことをするのだけれどこれは簡単には難しい。
これはお互いに深く信頼しあっていなければできないからだ。

人は信頼した人に何かを頼むというのは、その人の誠実な生き方や生き様などを見て決めている。その人が軽薄ですぐに自分のことばかりの保身を優先してしまう人ならばそういう人に自分の命を預けることはなかなかできはしない。

人物を観るには、この人になら命を預けても悔いはないという人を探すことが大切なのであろうとも今では思う。

一般的には、信頼のはじまりの部分で自分がやろうとしないで頼むのと自分には他に大切なことがあるから頼むというのでは異なってくる。

前者はいつも誰か任せで自分では責任は取ろうともせず依頼心で何かがあればすぐに媚びたり縋ったりしつつ自分を存在させようとする行為であり、つまりただ甘えていることになる。

後者は、自分本来の責任を果たそうとするからこそ自立心で役割分担しようとする行為であり、つまり協力し信頼しているということになる。

依頼と信頼の大きく異なるのは、人を信じるかどうかによる。
そしてその人を信じるとは、自分を信じるということに他ならない。

自分を信じるとは相手を疑わないことであり、疑わないためにも自分を偽らないことである。

自分が遣ることを真底から助けてくれる存在に救われることがある、それを自分がやったや自分がやっているなどと傲慢になれば誰もその人に手を貸す人はいない。

謙虚でなければ信頼関係が築けず、絶対的に信頼していなければ本心から命を預けることはできない。

人は人生の中で何人かの本当に信頼できる人に出逢うもの。
その人を信頼するかどうかで道がどのように開けていくのかが変わってくるからこれは誰もが通る道の一つ。

私はいつも信頼できる人に出逢えるのは本当に恵まれていることだと思う。だからこそ自立する側である自分が見守られるような存在で命を輝かせていることが見守りに対する感謝の返し方であろうとも今では思う。

万物自然の中で自分がどう素直に正直に生きているのかを元気いっぱいに太陽に見せるのがあの神々しい命の輝き。

自然界をもっともっと信頼して、この今にこの天命にこそ委ねて精一杯生きていこうと思う。

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