練習の意味

人は目には見えませんが「思い」というものを持っています。その「思い」にどのようなものが入っているかでその入れ物は全く異なるものになっています。

例えば、何かを習得するためには練習というものを行います。技術を学ぶことは練習ですから練習を積み重ねることで技術は上がるのですが、その練習も単にテクニックだけが上達しても上手だねと言われるだけで感動したとはなかなか言われないものです。

人が感動するには、その技術に心や魂が入る、つまりは「思いが入っている」かどうかがとても大切になるのです。

ここでの思いとは何かと言えば「祈り」のようなものです。

何かの仕事でもいいでしょうし、人生の中で行う何かのアクションでもいいでしょう、そこには何のために自分がそれを行うのか、そして自分が何の御役に立ちたいのかという初心があるはずです。

それを毎回思いだし、その思いを毎回入れて行うことが真の練習になり本物の技術を習得していくように私には思います。

練習というのはできるようになるために、形だけを似せたり、もしくは表面上がある一定のレベルになったからいいというのではなく、本質的に行っているからこそできるだけではなく「なる」ことができるのです。

そうなるにはそうなる理由があるということですが、そこにはその人の確かな「思い」が入っているのです。そしてこの思いを積み重ねて練り上がっていくものが信念です。これは一朝一夕ではならず、長い時間をかけて奥深い技術を学びつつ、生涯習得するための精進し続ける道であるのでしょう。

道に入るというものは、克己の技術を鍛錬することかもしれませんが大切な一日を思いを入れて実践し、信を醸成しつつ自らを高め続けていきたいと思います。

  1. コメント

    あの人のようになりたいと思ったとき、その人の何を見ているか、どこが見えているかで、練習の成果は違ってきます。形は真似ることができても、思いのレベルが違えば似て非なるものでしかありません。「思い」の差こそが「実力」の差であることを、いつも感じています。

  2. コメント

    何をする、遣るにしても初心から行動しているかは大事なことだと感じています。初心という言葉を思い浮かべるより、何で自分がここにいるのかストーリーで思い出すことで喝が入るのは遣ることがメインになっているからなのだと思います。初心も思うだけでなく伝えていくこと、行動していくこと日々その上に練習なのだと感じています。根本を忘れず精進したいと思います。【●】

  3. コメント

    自分の中で何か、思いに対する実践が足りていないように感じます。それは何だろかと自分に問うと、思いをみがき、綺麗に保つ掃除なのではないかと感じます。まだ自分自身、掴めていませんが朝の過ごし方をもっと変えて行きたいと思います。

  4. コメント

    義務感や外圧的なものから始めたことではなく、本心から望んで始めたことなら「思い」は自然と入るように思いますが、実際には技術の訓練になってしまっていると感じるものも少なくありません。それは初心を忘れるからなのか、そもそも事を始める際の初心が脆いのか。何をするにも、心を遣う訓練を積み重ねたいと思います。

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