人は自分の生き方を思う時、頭で考えていては分からないように思います。それは生き方というものを思う時、それは具体的な実践を通して実感するものであり決して頭で分かるものではないという意味です。
生き方というものは、自分の中にある大前提がどうなっているのかということです。
例えば、自分らしくいることを信じて往きたいと決めるとします、その際に、自分は信じているか信じていないかと悩み迷い、その上で信じようとしているのではそれは頭で考えているだけになっていてその考える前の場所、その心では決めていないということなるのです。
これは食べ物なら、美味しいか美味しくないか、好きか嫌いかという前に、何のために食べるのかということが決まってから悩んでいるのかということです。人は何のためにそれを遣るのかが心で決まっていないところで悩むとそれは単に頭でこうだろうとかああだろうとか感情的に処理しようとしてしまうものです。
そうではなく、心が先に決めたものに照らして思うのであればそれが具体的な生き方となって現れるのです。
しかし生き方につながらないのはなぜかといえば、頭で考えているだけで具体的な実践を継続し行うことを怠るから心で決めた方を忘れてしまうのです。頭で考えた実践風のことを、さもやっていると勘違いするのもまた自分の怠惰な癖が引き起こすのかもしれません。
自分の怠惰な癖に負けないように、心で決めたことをすぐに実践に移し、それを真摯に継続していくのならその心もまた正直に素直に働き始めるように思います。
いくらその人が遣った気になっていたり、分かった気になっていても、心で決めた実践を遣り切っていなく思い切ってできていないのならそれはきっと頭で創る妄想の中に執らわれているということになるのでしょう。
実践とは、具体的な生き方の実践です。日々に起きる出来事を流さず、その一つ一つに対して正面から向き合い、そしてそれを自分の生き方に照らして転じる、つまりは具体的な最善の行動によって信を守るということです。
何を信じて行じていくかは、その人の決心次第です。だからこそ、頭で行わず、心で行う実践を優先できるかが大前提にあるかが大切なのでしょう。
自分の大前提、つまり幸せを信じる人は絶対的な幸せの場所を維持する実践、感謝を信じる人は絶対的な感謝の実践、真心を信じる人は絶対的な真心の実践を継続し已めないからこそ大前提が基礎基本にどっしり座るのです。
前提が変われば人生が変わります。その前提を変えるには、決めた瞬間に具体的な実践をはじめてその大前提を築き上げる努力と精進を決して怠らないことです。決心とは、前提を転覆させないで維持する心の努力ということです。それの継続こそが、自分らしく生きたという信の証なのでしょう。
理屈や理想は逃げを誘発するものですから、現実の真っ只中に生きていくことで自分を修養し、そして一度きりの勿体ない自分だけの人生を歩んでいきたいと思います。
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「考える」ということは、もっと高等なことだと信じてきましたが、「保身」が少しでも入り込むと、極端にその質が落ちることがわかってきました。特に、考えれば考えるほど、「素直」や「正直」から藩れ、「決心」から外れてしまいます。「心で行う実践」を優先するためには、「すぐに頭で考えてしまう癖」を止める訓練が必要なようです。
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「寝ても覚めても一つのことしか考えていない」と聞くことがあります。2,3日間だけでも続くと自分が何を考えているかが分かり、自分のやりたいことなんてちっぽけに感じます。どうにかならないか、どうすればいいかと考えているとため息をつくことが多くなっていることに気がつきますが、もともと何をここでしたかったのだろうかと思うとそっちだったのだと思います。動き出しが遅いと準備がどんどん遅れます。遅れる分は相手そっちのけに自分のことを考えていた表れでもあると感じました。先延ばしにしたいと思うことほど集中して頂いている機会を取り組んで行きたいと思います。【●】
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現代のような世の中では、頭は使わなければ生きていくことは出来ないと思いますが「心はどうか」と問えば、実はあまり遣わなくても生きていけてしまうような環境・仕組みに囲まれていると感じ、恐ろしいことだという思いがします。そもそも何のために生きるのか、頭が働きやすいからこそ、いつも心に問いかけて正直な実践を継続していきたいと思います。
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走れない日が続き、部屋を見回すと、妻の激務振りに気が付きました。朝だけでなく、夜ご飯の準備に洗濯、保育園の準備に、自分の仕事の準備。
朝練も妻があっての事になってしまっていることに気づき、家事についてもっと一緒にすることに決めました。子ども達の為にも、妻が安心して暮らせるように、家庭の舵を切って行きたいと思います。