毎日、色々なことが起きる中で自分の思い通りいかないことは沢山起きます。最初は、感情的になりますが内省をし意味づけしていく中で新しい発見に出会います。発見というのは、自分の思ってもいない出来事に出会うことを言うように思います。
自分の思ってもいない出来事というのは、その出来事に良し悪しがあるわけではなくそのままにそれが起きたということです。そういう時は、その出来事に真っ直ぐに向き合えるかどうかでその出来事を正しく学ぶことができるようにも思うのです。
そして真っ直ぐとは何かといえば、直視することですがこれは心と体と精神が正面から受け止めるということであろうと思うのです。世の中には受け止められないことがたくさんあります、その理由は自分が捻じ曲げてしまっているからです。
本来の自分はこうであるはずということや、自分の思い通りではないというところに執着を持つと分かってはいてもその執着が手放せずにいつまでも苦悶は続いてしまうのです。この自分の思い通りというのは、世界は自分のものであるということ、自分の一部が世界であるという感覚のことであろうと思います。自分が全体の一部であり、世界の中に自分が存在していて循環の担い手であるということがこれを手放す鍵かもしれません。
自分の身におきる全ては何かの意味が隠れていてそれが世界に多大な影響を与えているという責任を持っているかという自覚なのです。出来事を善きことにしていこうとするとき、一見悪いと思えることを善いことだと信じようとするとき、世界の本来の姿が顕現するのです。
この世は、自分が生きているだけ、活かされているだけで幸福な場所なのです。その幸福な世界に棲んでいるだけで善きことなのですが、私や我が入ることでそう見えなくなっているのです。
そこから体験を省みれば体験そのものが感謝であると実感できるようにも思います。
体験即感謝というのは、この世界があるがままの世界のままにいる自覚をするためのコツかもしれません。知識という別の世界を産みだし、そこで人間だけの世界を創造してしまいましたがそのことから真実から離れてしまったように思います。
本来の世界そのままにいるということで、正直、素直であることを体現するのですから全体宇宙の感覚を忘れないように感謝のままでいる実践が確かな意味や記憶というものを純真にしていくように思います。
ズレテいるのは誰か、ズレテいるのは何か、そういうことを出来事との正対、自分自身との向き合いにより学び直すことが新しい発見を創造するのでしょう。有難い機会に一つ一つ深く感謝して歩みを清々しくしていきたいと思います。
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振り返って感謝に気付いた先の未来は自分次第でいくらでも変えられる可能性を持っていることを感じます。その場では気付かなくても振り返って気付く感謝が沢山ありますが、気付いてよかったと心の中で思っているだけではまだまだ感謝に通じていなかったのかもしれません。見える世界が自分の心を現していると思うと、きっと誰かにも自分がそう映っているのだと思います。自宅の鏡もすこし触って埃が被っていることに気がつきました。触れないと気付かなくなっている感覚を正していけるよう、当たり前に思わず行動していきたいと思います。【○】
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今日、車の中で、天の声を信じると決めたと言い、ただ、自分自身がすることは、何の為に今日を頂いたのかを問うだけでした。内なる自分が、天が何も言わなかったらどうするのか、と問いましたが、天と自分が離れているからそう言うのだと返しました。その声を聞いてハッとしました。自他を分けるから言い訳が産まれ、不信や不安が産まれるのだと気づきました。分けないと言うことの意味をもう一歩深めてみたいと思います。
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「不都合な出来事」ということは、自己中心の発想であり、「必然の世界」から見ると、自分の感覚の方がズレていることになります。そう、いう意味では、「不都合」こそ正対すべき課題です。また、そこに「メッセージ」が与えられているなら、「不都合」こそ感謝すべき出来事でもあります。不自然な「自己中心」を離れる修行課題として、「不都合」から逃げずに正対したいと思います。
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生まれてから与えられてばかりだから感謝を感じ難くなっているのかもしれません。両親から与えられたこの身体も少しでも長く持たせよう大切にしようと行動し続けて初めて、本当の意味で自分から頂いたことになるのかもしれません。いのちや人格も同じで、一生をかけて体験を通して自己研鑽に励まなければ自分から得たことにはならな いように思えます。周りから与えられる真心や機会に対しても、一つ一つ感謝の気持ちで頂きたいと思います。