全ての生命は生きていく力、生き抜く力、それはまるで生命エネルギーというものを持っていてどんなに過酷な環境の中でも逞しく生きてきた。
多くの困難を力に換えてもはやここまでかという状態でも諦めずに何度も何度も立ち上がってきた、そして乗り越えた。
その乗り越えた姿が今の私たちである。
希望だけを見つめて、日々を積み上げ、長い年月を耐え忍び信じる心を見失わなかった。
そしてまた目覚めてそしてまた生き抜いた。
いのちのバトンはその諦めない心が繋いだ襷に込められた魂の力、その極を常に移動し何度も何度も甦ってきた。七転び八起きと乗り越える度に、私たちは螺旋のようなエネルギーを発しながらさらなる高みへと貫いてきた。
偉大な自然界は、その全宇宙から地球にいたるまですべてに平等にまったく同じ偉大な生命力を私たちにも与えてくださっている。
私たち大和の民、私たち日本人は世界を易える役割がある。
このような時代に生まれた私たちが立ち返るべきところはどこであるか。
私たちの国歌としても詠われているかの古今和歌集の一文に下記がある。
「わが君は千代に八千代に細(さざ)れ石の巌となりて苔のむすまで」
直訳すると「私の敬愛する人よ、千年も八千年も、小さな石が巨岩となって、さらにその表面を苔が覆うようになるまでの永い歳月を、どうか息災でいて下さい」という意味になっている。
「さざれ石」というものがある。
これはもともと小さな石の意味だけれど、科学的には長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって1つの大きな岩の塊に変化したものである。
昔からさざれ石には神霊が宿る石と言われて神社などではよく見かけるものだ。小さな石はまるでただの砂利である、しかしそれが長い年月、積み重ねてきた様々な出来事を耐え忍び巌となるというものの象徴でもある。これは神社の大樹でもそう、苔むすほどに長い年月風雪に耐えて生きている力に何度も私たちは勇気づけられてきたのだ。
私たちは昔から、耐える事、忍ぶこと、つまり積極的に待つことを美徳に常に生活の中で心に太陽を抱き、神と道、かんながらの存在を信じて乗り越えてきた神話の民族なのである。
未来に決して希望を見失わず、日々に目覚めて起き上がり、また立ち向かい、そして乗り越える。
千年後も、万年後も、億万年後も時が続く限り、、これが命の源泉である。
子ども達には、何よりもそういう摩訶不思議な生命力の源泉を知覚してほしいと思う。日々、生きていることに心を傾けて信じるということの素晴らしさ、美しさを身近な自然の植物や昆虫、動物や大気、火山や星々など全てのものから学び掴んでほしいと心から願う。
私の人生の持ち時間で一体どこまでのことができるのか。
何を遺していけるのか、負の遺産ではなく本物の遺産を遺して譲ってあげたいと祈る。
これもあの摩訶不思議な存在にすべてに委ねて今に全てを懸けて生きてみようと思う。
志は大空の下、ますます逞しくまた嫋やかに咲く花々のようである。
冒険はまだまだ続く、愉快な旅の一ページ。