循環の営み

身土不二という言葉は元々は仏教用語で「身」と、「土」は切り離せないという意味になる。それを玄米無双原理を提唱した、石塚左玄が同じく食養に活かし、その土地で取れたものがもっとも身体に合ったものであるとし、今では地産地消などもその原理で語られることもある。

私はある時を境に、玄米食に換え主食というものを軸に自分を正すというような正食法を自らで試しながら取り組んでいる。それにできるなら、その土地のものを食べるという生活の一部としての食を全うしようとも心がけている。

そもそも今のような時代は、複合汚染から口から様々な化学物質や自らの身体に不適合なものを日々に摂取するような環境がある。人間は食も外食産業が盛んな中で単なる欲望から食べるのと、日々の営みとしての生活のために食べるのとでは「食」ということの定義が異なってもいる。

私たちは大いなる地球の循環の一部として生活を営んでいる。

これは別に普通に通勤し給料が貰えることで衣食住が足りるというものは本筋の営みや循環であるはずがない。それはあくまで人間社会で架空に切り取られた一部の人間側の循環であり、ごみ問題も、差別の問題も、多々様々に循環しない不合理なものをさも循環のように見えるように刷り込んだだけで本来あるべき営みというものが無視されているのである。

元来の私たちの生きる上で必要なすべては、地球の営み、その循環の上に成り立っている。

地球上のありとあらゆる植物も動物も、そして菌類や様々な生命は食物連鎖という偉大な循環の中で調和し生きている。

もともとの全ての命には一切の無駄がなく、その生も死も地球の必然の中で正しく循環することでそれぞれの使命を全うしそしてまた次の循環の一部として存在を維持してきたものだ。

それが人間が人工的に地球の営みを破壊し、食を通して生も死も人間都合で扱われたことで循環が乱れ、地球の営みが狂ってきたことで起きる問題の対応をまた科学に依存し処理するという繰り返しの中で遂に行き着いてきているのが今の状況であるのだろうとも思う。

本来おかしなことを人間がしなければ自然に必要な分だけ手に入り世の中に不必要と思われることなどもない循環があったものだ。

人間に役立つ能力があると評価され、人間に役立たなければ要らないものだと自分勝手に人間により裁かれ身勝手に処理されていくなかで心の中の循環まで破壊されるもの。

私たちはこれからのことを真摯に考えなければならない時機が迫ってきている、食糧難とはなんであるのか、それを見つめていかなければならない。

もはや循環しない世界では、迫りくる末路、その生命の危機に人間も過去の負の遺産の先送りという間違いを隠しきれないところまできているのだ。

如何に地球の循環に溶け込み生きていくのか、それは人間が助け合って協力してみんなで営みを大切に生きていくことであろうとも思う。そしてそれはもともと循環の中で生きていこうと勇気を持って決意することである。

無駄なものなどはない、人々の叡智を結集すれば食事もそうだし営みもきっと満ち足りた中で穏やかに生きていけるものだ。自然の大いなる循環にあわせるための科学であれば必要であろうけれど、人間の大いなる野望のための科学であればそれは使い方が間違っているのだ。

循環の中で生きる人だけが、万物の霊長としての使命を果たせるもの。道具が使えるのならばなおさら、周囲の小さな無限の生きものたちに思いやりを持ちながら生きていこうとするのは私たちが末永く生きていく道でもあるのであろうとも思う。

助け合い、分け合い、思いやりの社会を築き生きていくことは、大宇宙の循環の中で心身一如に生きる事。

子どもたちにもそういった自然に溶け込み循環の流れに沿うような生き方を示していければと思う。一円観で融合させ、新たな境地を切り開いてみせます。

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