山野辺の道草

人は新しいことを学ぶときには、新しい山を登るものです。歩み続けるほどに新しい山は顕われ、その山をまた一つずつ登り学んでいくように思います。

山を登る時、人は登ってきた大変さを思うから降りたくないと思うものです。せっかく登ってきたのだから他の山に登ろうとは思わないのかもしれません。しかし、山は新しいステージに合わせて顕われますから今までの山の上にまた登ろうとするのではなく、心機一転新しい山だと思って最初から登る気概が必用ではないかと思うのです。

仕事でも、営業で学ぶ山、上司として学ぶ山、経営者として学ぶ山があるように思います。その山は一つの山の上にあるものではなく、それぞれ別の山を登っているのです。言い換えれば新しい風を感じながら、その山一つ一つの意味を確かめながら登るのに似ています。

みんな山と言えば階段のように、その上にまた山があっていつかはエベレストのようにてっぺんがあると思うのが山の概念です。しかし私の思う山はそうではなく、山の辺の道を歩んでいく中での道草の一つとして登る山々です。

登ることが目的ではなく、山々を歩いていく中にこそ道があるように感じています。

ヤマトタケルの辞世の歌に下記が残っています。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるはし」

(大和は日本の中でもっとも素晴らしい場所。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた倭は、本当に美しい。)

「命の またけむ人は たたみこも 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子」

(いのちの無事な者は、幾重にも連なる平群山の大きな樫の木の葉を かんざしとして挿すがよい こどもたちよ)

私の思う山々というのは、このヤマトタケルの定義している山と同じです。

その天に恵まれ見守られる山々の中で私たちは活かされ道を歩むことできています。その山々に感謝しつつ、新しい山を観てはそこを登らせていただきまた降りさせていただき次の山に学ぶのが、道場としてのお山なのかもしれません。

山はまるで神様のようなものだからこそ私たちはその中で生きているのですからその山の入り口で静かに佇む樫の樹の葉を御守りにして、活かされているままに澄んだ真心で学びとっていくことがいのちが自然一体に成長するということなのかもしれません。

倭人の子どもとして今も歩んでいくのだから青垣の美しい山々は続いていきます。
新たなステージを楽しみながら山野辺の道草を行脚していきたいと思います。

 

  1. コメント

    人生には「ステージ」が変わるときが何度もあります。学生から社会人へ、独身生活から結婚生活へ、子どもから親へ、一社員からリーダーへ、あるいは経営者へ等々。ステージが変わるときは、価値観も大きく変わるときです。この価値観の違いが景色の違いであり、登る山の違いでもあるでしょう。これまで、いろいろな山を歩いてきましたが、まだまだ未体験の山が続いています。過去の価値観に縛られ頑なにならないように注意しなければなりません。もっともっと新しい自分を磨きながら、新しい道をどこまでも味わっていきたいと思います。

  2. コメント

    もし、ヤマトタケルが現代に現れたとしたらどう思うのでしょうか。その中でもヤマトタケルが言う美しさはどこかに残っているのでしょうか。
    山を登っているにもかかわらず足下ばかりを見て周りに気付いていないのかもしれません。仕事でもそうですが一つ一つの意味を感じ味わえるよう、心が動くような取り組みを実践していきたいと思います。【●】

  3. コメント

    山は幾つも続き終わりがなく、登りきれないほど用意されているからこそ人生は楽しいのだと思います。周りを見渡せば皆がそれぞれ自分の山を懸命に歩む姿が遠くに見え、それが嬉しく励みにもなり自分の足どりもまた軽くなります。皆が同じ一つの山を競って登るのでは争いにしかなりませんが、お互いが自分の山を登るからこそ応援し励まし合えるのだと思います。心に余裕を持ち、多くのものを感じていきたいと思います。

  4. コメント

    自分自身の山を登る時、言い訳も何もいらない状況になりますが、有難い、美しい、豊か、と感じられる自分自身でいるかどうかが大切だと感じます。心に写る景色が自分を作り上げていくのたからこそ、いつまでも心の曇りのない自分自身でありたいと思います。

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