想念実現というものがある。
これはまだ若いころ、ある人の秘書のような仕事をしていた時にその生きざまから学び、背中を通して如何に念を強く想い続けることでそれを具現化していくかということの大切さに気づいたことがある。
同じことをただ一つのことを記録を常に塗り替える程に強烈な意志で念じ続けることで、そのイメージに近いものが引き寄せられてくるという感じだろうか。
私はそもそも念が強いタイプのようで、思えば思うほどにその糸を手繰り寄せるように其処に向かおうと力が無意識に働いてくる。時間の感覚がおかしくなり、かなり先のことを今やっていたり、今やっていることがかなり先のことだったりと行き来しているような感覚になることもある。
しかしその念は自分勝手に故意に行ったり、念じているものが自分都合の欲望であれば引き寄せられることはない。
それが誰かを守るためだったり、それが皆の幸せであったりするときに出来事ひとつひとつが決して粗雑にならないように大事に抱きしめるように活かしていくようにしている。
向こうから来たものに対して、如何に素直に受け容れるかというのには思想も哲学もいるし、何より真心がいる。虚心坦懐に本心本音の真っ白な心でなければ、直観で物事を捉えることはできないからだ。
目に見え頭で判断し選択している世界と、目には見えないけれど心で感じて選択している世界があるとする。
私たちは、目先のことは頭で判断できるのだろうけれど、遠い未来や広大な世界のことはすべて大調和の心で判断しているのであろうとも思う。
心が望んだものに対して頭で判断していくという順序で直観を信じて地味に歩んでいくことがどのように生きるのかという問いそのものにつながっているのであろうとも思う。
人はそれぞれに生まれてきた時から、何のために生まれてきたのかを頭で考えるようになる。自然に考えないで人生を丸ごと受け容れれば次第に理解してくる自分らしさも感じないままに誰によって刷り込まれたものに囚われ、また現在の社会環境に依存していくものであろうとも思う。
それをどう断ち切り、人々が自分の人生にリーダーシップを発揮していけるのかというのは想念実現する過程でそれぞれが夢を実現していくことができて成り立つのであろうとも思う。
夢とはなんであるか。
夢とは何のために生まれて何のために生きるのか、自分とは何かを知る事であると私は思う。きっと生き物は偉大なる意志により生かされていると仮定すれば自分の人生を思う存分に生き切るのに別に理屈はいらないのであろうとも思う。
酔生夢死というふうに自分らしく生き抜けばそのような感覚になるのであろうかとも思うけれど、人の道として自分を信じるということを、周囲を信じるということに換え周囲の一人一人が自分らしくあるように生きてこそ安心立命できる温かい社会が出来上がっていくのであろうとも思う。
素晴らしい社会の姿とは、一人一人の個が自らあるがままに主体的に生きていける人間が皆で助け合っている姿である。
忘れかけた一過性の一斉画一の社会では個が押さえつけられてしまう、いつまでも人間のそういう生きる力を目先の損得で抑え込めるはずはない、気づいた人たちから変わっていくことが大切である。
どんな想念を抱き、どんな社会を実現するか、それは一人一人の生き方にかかっているからこそ子どもたちを丸ごと受け容れるような実践を大切にしていきたい。