なぜ教育が必要なのか、その問いについて私なりの明確な定義があります。色々と賛否もあると思いますが、ここで書き記してみたいと思います。
そもそも教育とは何かというと世間では学力だの躾だの評価だの色々と語れます。それは何か知識を得て指導されることにより、優れた人間になるというように思われています。その優れたというものも何をもって優れているかと言えば、社會に善い影響を与える人だということは自明の理です。
世界でも学力ということが注目され、日本の教師も海外視察をし様々な学校の仕組みに注目しそれを国内へと取り入れるよう苦心しています。そういう私もオランダやドイツに訪問し、その国の学校の仕組みを観察したりもしました。
しかしそれは具体的な教育技術であって、そもそも教育とは何かという答えではありません。
私の思う教育者というのは、社會者というものです。
畢竟、社會がないのであれば教育は要りませんし、教育しなければ社會は成り立ちません。人が人と一緒に集団で社會を育てるために教育が必要になるのですから真の教育とは「社育」のことです。
つまり私は社會を育てることが、教育の真価であると定義しているのです。
以前、イエナプランのコンサルティング会社の経営者と会食する中で私が日本の社会が貧しいと嘆いていたら「教育に携わるものが社會の文句を言うべきではない、そうしてしまったのは教育がしたのだから」という話に感銘を受けたことがありました。
あの頃から、私にはオランダに行こうがドイツに行こうがどの国に行こうが、もしくは国内でも教育というものは常に一人一人が内省により実践し、自らの人格を高めることにあるということを自覚自明しました。
世界に影響を与える自分という社會を如何に自らが育てるか、つまりは社會人としての自分を如何に高めて学び徳を積んでいくのか、そういうことを自立し実践することが真の社會者=教育者であると私は思っています。
そしてこの人は真の教育者だというのは学校にだけいるわけではありません。
ある社會では会社であったり、宗教であったり、病院であったり、あらゆる1人以外の組織、コミュニティ(集団)の中にだって顕現しています。
善きリーダーが育ち、善き社會が顕われることこそが、真の教育に他なりません。
いくらテクニックばかりで教育を遠くに求めても、まずその自分自身の内省による社會が変わらないのならばそれはとても教育と呼べるものではないと私は思っています。
かつての神話にあるような世の中を、大国主が社育した世界、また聖徳太子が目指した社育、思いやりや正直に溢れた世に拡げていくことこそが日本人の伝統教育であると私は直観しています。
真の社會人になれるよう、矢印は自分に向けて自らの社育を実践し拡げていきたいと思います。
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社会の現状を自分事と捉えて背負う姿勢に、なるほど、、と思いつつもまだ自分自身の中では自分と社会が一体と感じられるほどではありません。
まだ、自分自身の生き方に対して真剣でない部分があるのだと感じます。背負う覚悟が生き様となる様に、改めて自分自身に覚悟を問いかけて行きたいと思います。
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「教育」こそ、日本の運命を左右する最も重要なものです。真の教育には、松陰先生のような、一人ひとりの魂に火をつけて全人格を導くことのできる熱心な師が必要です。「師」とは、教える人ではなく、自らの「道を求め学び続ける姿」「使命に命を懸ける生き様」で人を導く人であり、そういう「個を越えた実践教育」の連鎖が連綿と続くことこそ、日本の教育の本質ではないかと思います。自分もその流れの一部として、日本の未来によき影響を与えられる生き方をしたいものです。
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友人の結婚式に出席し新婦から両親への手紙を読む中で、「これまで受けてきたたくさんの愛情を今度は○○くん(新郎)や家族へ注いでいきたいです。」という一言がありました。出席した皆が幸せな気持ちになるいい式でした。出席した皆を幸せにしてくれたのには、ご両家の両親の愛情の賜物がそこにあり、皆を幸せな気持ちにするそれこそが大事なのかもしれません。同い年の友人の結婚は嬉しさと同時に、自分もそういう年になったのだと改めて実感します。いつまでも子どもでも教えてもらってばかりいる立場ではなく、某かの影響を与えうる立場である以上、もっと深く真剣に実践と内省を深めなければ歪んだものを発信してしまうかもしれません。家族や友人から頂いたものを少しでもお返しできるよう、精進していきたいと思います。【○】
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家族という集団のなかでも父親という立場を担わせてもらえていることもまた有難いことだと思えます。子を連れて何処かへ出掛ける時も何か教えてあげようとするよりも、自然と父として姿勢が正されることでお互いに良い学びになっていることが少なくありません。自分が社会の鏡であることをしっかりと自覚していきたいと思います。