正の遺産

毎日、食べるものがあり生きていけるということはあまりにも当然になればその有難さに気づかなくなっていくのが私たちであると思う。

あまりにも当然のもの、例えば太陽や空気、風や雨などに対して私たちは感謝するということを忘れてしまうのもあまりにも偉大な恩恵に対してはあって当たり前になるから気づかなくなるのであろうとも思う。

当たり前にあるものの存在が、これほど愛おしいと思えるのは失ってみてはじめて分かるものであるからこそ当たり前のことを決して忘れてはいけないと私は思う。

今年の新入社員研修は、畑で土を耕し腐葉土を山へ探しにいき、灰をいただき藁や枯草など、その他、土壌の菌を活性化させるようなことを丁寧にして野菜を植えた。

自分たちの会社で食べることができるようにと、一部のものはパートナーの方々にもお菓子なとにしてお渡しできるのを心待ちにしながら夏野菜を植えて今はその成長を見守っている。

新入社員にとっては農作業は人生ではじめての体験だったようで土を耕しじっくり待った後の土の感触やミミズや虫がたくさんいたのを見て嬉しそうなのが印象的だった。

野菜はお金で買うものではないということに気づけましたという本人の言葉からも、私たちは元来お金ではないモノサシの中で自然とともに生活を営んできたことに安心と幸福を感じていたようであった。

この後、私たちはこの野菜を育てみんなで収穫の歓びを味わい食べることでその助け合うことを学ぶことになる。つまりこれが食育の本質、食=育なのであろうと私は思っている。

きっと私たちは昔から、土から育て土に帰し、また土に待ち、循環の中で私たちは成長をゆったりと見守る豊かさ、信じる事の大切さを学んでいたのではないか。

自然の叡智から私たちは、自然を通して信じ合うことの素晴らしさ、つまりは生きることを学んでそれぞれが自分らしく命を輝かせていきてきたのであろうとも思う。信じる事で命が輝くことを待つことで学んだのが私たちの山野学習なのではないかと私は思っている。

今の都市化された社会で個々が忙殺され、今のようになったのは自然に循環しなくなった切り取られた社会の中で居場所をみつけられずゾンビのように生きているからでもある。

何が当たり前なのか、何が本当のことなのかがわからなくなれば人はおかしくなってしまうものである。おぼつかない不確かなものに縋り依存し生きていけばそのうちに食べるということもわからなくなってしまうのであろうとも私は思う。

食べるということは、もっとも信じることにおいて大切な最初の学びなのであろうとも思う。産まれた赤ちゃんが母乳を飲むところから始まり、死にゆくものが口の渇きを潤そうとするように食べることができてはじめて私たちはこの世に存在していることを知るのであろうとも私は感じたことがある。

食べるとは、ただモノを口に入れればいいのではない、食べるとは循環の流れの中でその命を育て養うことである。

小さな野菜作りからも世界は見通すことができるし、小さな土づくりからも真理に近づくことができるもの。

感性を磨き、一度しかない人生に確かなものを掴み取っていきたいと思う。

前々からやろうとしていたことに躊躇う時間はない、今の大人たちの無責任な社会問題で先延ばしの醜さを生き方を大事にしない怠惰な姿を保身の中で垣間見たからである。

子どもたちのためにできることを自分の志に照らしひとつひとつを根気強く実践していこうと思う。子どもに遺していける正の遺産とは何か、私たちが受け継いであるものを見える形にして還元できるよう知恵を振り絞りつつ祈りを深めていきたい。

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