中庸ということを理解するのには必ず実践が必要になると思います。いくら頭で中庸を理解しても、それは偏ってしまっていて本当にモノになるわけではありません。人間は楽をしたくなるものですから頭でわかった気になることを欲で求めてしまうものです。
頭でわかった気になると一時的な不安はなくなりますが、心の不安は膨大していきます。これは中庸であるということから離れてしまうからです。
たとえば、忙しいから人の世話や全体の仕事をしている暇がないという個人がいるとします。しかし本来は、忙しいのは誰もが同じで自分が忙しいからこそ他人が暇に見えているだけで本来は自分が忙しくても他を思いやる実力があるかというのが強さであり優しさであり自立しているということでしょう。
これは相手を思いやるという実践ができているからこそ、中庸であることがわかる事例です。他にも、頭でいくら真理を知ったとしても真理は頭で考えるところ以外に存在するのですから現実的に体心精神などを一体に実践していないのならばそれは真理を分かった気になっているだけということです。
人間は楽をして簡単便利な方を選択するから、自分の身体や心が疲弊し疲労するようなことを避けようとするものです。具体的な行動にまでいかないのは、いつも頭で計算して取り組むことを思いやりだと勘違いしてしまうからです。
相手のことを心配し、思いやることではじめて実践していくことが観得てきます。するとそれは自分の労苦を厭わないで謙虚にさせていただきたい、力になってあげたいという心が湧いてくるはずです。
そのあとに頭を使ってアイデアを絞り出して行動してみることで、はじめて中庸に近づいていくように思います。つまりは中庸というのは、思いやりを優先するということでしょう。
どうしても自分の考えた世界だけが世界だと思うのも人間ですが、世界の問題を自分のものとしているか、周りの問題は自分に必要な問題だと感じているかは、その人の生き方の実践に由るものですから自分の周りの出来事は他人ごとではなくすべて自分に関係があると実感することが中庸に近づくコツなのかもしれません。
「すべての出来事は自分にとって必然である」と思え、その問題をすべて解決するのは自分自身だと実感することが視野を広げ、自分を高めるということにつながるのでしょう。刷り込みを捨て去ることが何よりも先であり、中庸とは「現実の中」にあるということです。
自分が観えている世界をすべて肯定する勇気があってこそ現実に生きることができるのでしょう。真理は現実の真っただ中にあり、頭で考えた妄想の中にないということを戒めていきたいと思います。今日も感謝とともに実践の中の覚悟で生きていきます。
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大切なのは、「ぶつからないこと」ではなく、「ぶつかって、いき過ぎだと悟ること」です。一度ぶつかるまでやってみないと、ものごとの加減はわかりません。従って、遠慮している間は何もつかめません。「真理は現実のただ中にあり」とは、日々ぶつかる現実との格闘を通して悟るということでしょう。「保身のための安全策」がもっとも真理から遠いということを確認しておきたいと思います。
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自分の事を心配し続けた二十代から、結婚し、子どもが生まれ、お客様、仲間に恵まれ、自分以外の存在に自分を使わせて頂ける機会を頂きました。また、その時に自分の事を心配しなくなってこれた理由を振り返ると、自分自身を信じられるようにしてくれた周りの皆さんの見守りや声掛けでした。自己肯定を促し、受け入れてくれた経験が、自分を自分の為に使わず、誰かの心配をさせて頂ける状態を後押ししてくれていると実感しています。今という、全てに飛び込む勇気を頂いていることに感謝して歩みたいと思います。
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偉人の言葉を集めた本を読んでいると、読んでいて心地よさを感じます。ただ、それは映画の結末を先に知ってしまうことに似ているのかもしれません。言葉に触れ感じた後実践しなければ、いつになっても追いつけないのだと思います。日々感じて気付いた中で掴めるものが少しでも得られるよう、分かった気にならず実践を重ねていきたいと思います。【●】
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大切な教えも、それを言葉のまま受け取っていてはいけないのだと思います。善い意味で常に疑い自分の実践行動から真理を掴んでいく、これも言葉で言い頭で考えては虚しく響くだけだと感じます。周囲の皆様を尊敬信頼し、しかし阿ることなく自分自身の現実の中で体得していきたいと思います。