日本の社會では、あまり自分の意見を出さない方が善いという考え方を持っている人がいます。しかしよく聞いてみると、流されてしまっているだけや周囲に合わせているだけといった自分を持っていないことで我慢したり悩んだりしている人も多いのです。
先日、ある園の相談で自分の意見を言える子どもになってほしいという願いについて話し合いました。なぜなら、自分の意見が言えないというのは社會の中で自立していけないからだとありました。
この自分の意見を言わないということを少し深めてみたいと思います。
そもそも自分の意見が言えるというのは、自発的で主体的であるということです。何かの物事に参加するとき、それが妥協ではなく協力であるならば自分はこうしたいという意見がありそれを周囲に発信して自分から進んで取り組んでいきます。
しかし、これを周りに合わせてから自分をだそうや、周りの評価や自分を我慢して従っていこうとなると一見トラブルも発生せずに無難で安全ですがそうすると他発性で受け身になってしまうのです。
自分から意見を持つというのは、自分をもっていないとできません。そして自分を持つというのは自分で考えていないと自分は持てません。つまりは何かの問題に対して手綱を自らが持ち全体を御しているか、それともただ馬に乗せられているだけかの違いになるのです。
ただ乗っているだけならだれでもある程度はできるものです。しかしそこに確かな自分の意思や主張を出すのだから積極的に物事にかかわり、自分の意見をその社會に対して発信して最終目的まで主体的にかかわり続ける必要があります。
つまりは社會参加のように、見守られているのだから自分の社會人として社會の一端を担おうと自ら見守る側として考え意見を発信するということになります。社會活動も同じく、自分も社會の中で存在する大切な一員なのだから自分が社會をつくる責任を持つのです。
自分の意見がないというのは、その自覚がないということです。だからこそ会社でいえば、自分が会社を創っているのだから自分の意見はとても大切なのだと自覚することや、一人一人が自分が大切な存在なのだから他の意見を認め、自分の意見も認められる社會にしようとすることが共生する場を創出していくことになるのでしょう。
自分の人生を自分で生き切るというのは、自分の意見を持つということです。それは単に反対するとか、わざわざ反抗するというような幼稚なものではありません。自分なりに考え抜いた問いを自分の発言に責任を持ち周囲に発信するということです。
これができてはじめて自分もチームの一員だという自覚が芽生えるのでしょう。自分の意見が誰かのお役に立つことがあるのですから、どんな意見も大切にしていこうとすることがよりよい多様性の社會を産み出していけるように思います。社會活動というものの本質は、自分自身の自立をもって行動するということでしょう。
人の話を聴くということ、そして自分の話をするということ。
たった一人の自分の人生を歩む覚悟として、常に自らの姿勢を正していきたいと思います。
堂々と言いたいことがはっきり言えるような大人のモデルを実践していきたいと思います。
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今日のクルーミーティングでも、発言が的を得ているかどうかよりも、発言が距離を縮めることを実感しました。正解なんかわからないからこそ、真面目よりも真剣に、へんでもいいから、今に挑戦し、少しでもみんなと一体になろうとする気持ちが、大切なのだと気付きます。正解は、本やネットで調べれば見つかりますが、ともに歩み、辿り着くには、答えよりも自分ごととして考え、行動し、支えて行く柔軟性が大切だと感じます。
自他を分けない生き方を大切にして行きたいと思います。
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自分の意見が他の人と違うことで笑われ、恥ずかしい思いをした経験が何度もあります。しかし、本来、意見の違いは「正しさの違い」ではなく、「視点の違い」です。そういう意味では、違う意見にこそ価値があるということを、もっと認め合いたいものです。また、それは、自分の生き方という視点からの意見でもありますから、他の人と違うかどうかよりも、相手に対して、そして、社会に対して責任ある意見かどうかということに気をつけたいと思っています。
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社内でこうしよう、ああしようと考えていることはきっと他の会社でも同じ方向を目指しているところがあるのだと思います。社内だけの議論に留まらず会社を飛び出し、どんな働き方をして何を目指しているのかを聞かせて頂くことは、通ずるところがあるのだと思います。今話し合っていることはきっと他でも活きると信じ、一つひとつ世の中が変わるきっかけになるという思いでいきたいと思います。【●】
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技術者をしていた頃、会議の場で皆が必ず発言する際に「個人的な意見ですが」と添えるのを聴いてモヤモヤしたことがあります。特に深い意味は無かったのかもしれませんが、私には「皆と違うことはいけないこと」という中での配慮の言葉のように思われて違和感を感じました。思っていることを素直に言える環境、違いを認め合える環境が本当だと思うからこそ、言うべき時には言うという当たり前のことを自分から行っていきたいと思います。