昨日、念願の水田づくりを無事に行うことができました。
光と水と風、そして土の調和の中で私を含めた生き物たちが共生する地球の喜ぶ田んぼから自然を学べることに感謝しています。
振り返ってみると、時間が経てば過去に起きた出来事はすべて意味がありつながっていることを実感します。なぜあの時はできなかったことが今はできるのか、なぜあの時はならなかったのかを内省すると、タイミングが合わなかったということがわかります。
その時は焦りのあまり、思い通りにいかないことに挫折をしたり一喜一憂したりと大変でしたが時間をかけて継続していけばあの時の苦労が今に活かされていることを実感するのです。
人生には必要な時期に必要な体験というものがあるように思います。いくら早く早くと焦ってみても、無理やり力技でその時は乗り切ったにせよ、タイミングが合わないのであればことは為りません。
そう思うとき、如何にことが為るには長い月日が必要なのかということを実感するのです。
言い換えれば必要な月日があって事は為るということです。
自然体というものも同じく、長い月日をかけてタイミングを合わせていく中でもっとも相応しい時処位に応じた行動ができるかどうかということなのでしょう。心で浮かんだことが形に為って行くまでには自然と一体になってその時機が訪れるのを信じて待ち続けなければなりません。
それは頭で思うとおりにすることではなく、心が感じるものを感じたままに味わい、感謝のままに周囲に支えてくださっていること、周囲が助けてくださっている実感を覚えるときに時機は実感できるように思います。その時機を実感するためにも、信を入れて過ごした長い月日が必要なのです。
自然というものは信じれば信じるほどに裏切りません。それは必ず善いことにしてくださるからです、それを天や神様、もしくは地球や宇宙と呼んでもいいのかもしれません。そういうものに包まれる中で私たちは呼吸をし脈動を打ち、めぐり会いを通じて活かされているのでしょう。
如何に自分が自然と一体の中に活かされているかを思うとき産まれてきた幸福に出会えるのです。心は常に自然とつながっていることを忘れてはいけません、だからこそ自然に待つ力を伸ばしていくのが修養の本質なのでしょう。
心の実践を積み上げて、味わい深い学びを楽しんでいきたいと思います。
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「何ごとにもタイミングというものがある」ということは、これまで実感してきました。また、「自分が成長しないことには、叶わないことがあり、出逢えない人がいる」ということも痛感してきました。早すぎても遅すぎてもいけないものに、ひとり焦り、苛立ち、諦めてきたように思います。この「タイミングがわかる」というか「自ずとタイミングが合う」ということが、「素直」であり、「一体」になれた証でもあるでしょう。「必要な時に、必要なものが与えられる」ということを信じ、素直に一体となれるよう、それに相応しい自分を目指して、ひたすら自己を磨き続けたいと思います。
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当初から水は少し流れ出ていましたが、一面に水が引かれたあの場所に水が引かれたと思うと最初を知っているだけに感慨深いものがあります。あれから約3年、収穫物を頂く機会が増えましたがその背景にある苦労を見ずにはいれません。つい目の前のことばかりに注目してしまいますが、目を見張る実践量に自分はまだまだだということを感じます。機会に備えられるよう日々修練を怠らずにありたいと思います。【●】
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春のこの時期に妻の実家の新潟に帰ってみると、夏や冬にはない味わいが沢山ありました。何故今までこの時期に帰ることが無かったのかと思いましたが、これも今の自分だからこそ巡ってきた機会なのだと納得しました。食卓に並んでいた木の芽(アケビの新芽)も、自分で山へ取りに行って初めてその背景にある楽しさと大変さを知ります。娘にとってお祖母ちゃんとの思い出をビデオに記録してあげるのも良いことですが、この地でしか受け継げない生き方の方をもっと体験を通して遺してあげたいと感じています。
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体の回復を待つのも、家族の絆を深まるのを待つのも、ただ待つのではなく、待つ状態を自然にしておくこと、完全に福になると信じ、その心の状態で心が感じる好奇心に従うことだと感じています。しかし、中々、待てません。
心が信を維持出来ない時があります。
しかし、終わりではく自分自身の心の状態の問題なので、プロセスを大切にして行きたいと思います。