人は自分の在り方というもののモノサシをどう持つのかでその生き方が変わってしまうもの。
例えば、責める生き方、無理をする生き方、競争する生き方、疑う生き方から、許す生き方、無理をしない生き方、自由な生き方、助け合う生き方、信じる生き方など、その人が自分の在り方においてどのようなモノサシを心の棒にしているかでその在り方が変わってくる。
責めるというモノサシで生きている人は、自分が強気でいるときは誰かを責め立て、そして自分が弱ると今度は自分を責め立てる。常に責めようとする感情に支配され、何かを責めていなければ生きられない程になっていることもある。
これは自他を責めるかどうかの問題ではなく、そもそも責めないとする生き方つまりは「許す生き方」に変換する必要がある。もしそれに人が気づいて自他を責めるというモノサシではなく、自他を許すというモノサシにすれば自分も許し相手を許すことになればいいだけである。そうすることで、周囲の人や自分との関わりが破滅的ではなく建設的な生き方になるものである。
もう一つ例を出せば、自他を疑うというモノサシがあるとする。自分が強気でいるときは誰かを疑い、自分が弱気でいるときは自分を疑う。自他を信じるというモノサシに変換できていなければ、一生その感情のモノサシにより自分の人生はいつまでも建設的に好転していくことはない。
人生とは、その人の生き方が決めるものである。
「明るく素直に正しく、他人に優しく言葉を大切に与える方を優先し、真心で助け合い、尊重し認め合い、勇気と元気と健康に今を大切に謙虚に感謝とともに生きていく」という言葉があるとする。これは全てこの世の善い循環で生命が楽しく豊かにあるために自分もその一部として好循環に溶け込み生きていれば次第に幸せになっていくのである。
そうするだけであの豊かで幸福な笑顔で、いつも穏やかに自由にある存在のようになれるのである。
これとは逆に、いつまでも人生がうまくいかないと苦しんでいる人たちはやっぱり原理原則としての心のモノサシが以上のような「明るい」とか「素直」とか「謙虚、感謝」などというものではなく、冒頭の責めるとか、疑うとかをはじめ、不安とか恐怖という感情に支配されてしまい、いつまでも自分のあり方の方が大切であるのだということに気づくこともない。
その根底に気づかないのはその手前にある感情の刷り込み、つまりは自分の根底にいくまえに壁が立ちふさがっているからでもある。
この壁は、誰かから傷つけられたトラウマであったり自分の傲慢なエゴであった、もしくはその人の持って生まれた先入観だったりもするけれど、それを受け容れたり手放したり取り除いたり改めなければ何をやってもいつもうまくいかないということになるのであると思う。
性質が悪くなるのは、そのモノサシを変えずに何度も失敗を繰り返すと、どうにもならないからと自分を慰め自己憐憫をし被害者妄想で自分が被害があるのは誰かや何かのせいだと一向にそこから改善するよりもその状態に浸っていたいという逃げが入り人生が循環せず停滞してしまうだけである。
自分の生き方が周囲へ好循環を生むように、自分の価値観を変換することはとても大切なことであろうとも思う。特に、子どもの周囲にいる人たちは子どもにどのような生き方を見せるのか示すのかというのは大変重要なことであると私は思う。
なぜなら、子どもは知識はその辺の本や情報から得られても人格や陶冶とは周囲の大人の生き方や関わり方で学んでいるからである。
周囲の大人が働きかける関わりで、生き方として味わう喜怒哀楽の感情のモノサシをオープンにするのかクローズさせるのかを決める。傷を与えるような関わりの大人であれば、子どもは自閉気味になり不自然になる。そして傷をいやすよう見守る関わりの大人であれば子どもは自由に生きていき、明るくオープンに自然体でいるようになる。
子どものためにも何かを子どもへ要求する前に、まず自分をの生き方を見つめ直して、在り方を見直していかなければならない。
今は、現場で傾聴して相談を受けているとたくさんの人たちが何ともいえない抜け出せない閉塞感で心が苦しんでいる。子どもといる幸せを感じる余裕もなくなっている人がいる。
楽しく豊かで幸せな生き方をするためのモノサシとは何か、そういうものを気づきの中で共有できるようにカグヤはそれを子どもの仕事に取り入れていきたい。