中国、論語の一つに礼記があります。これは論語の四書五経のひとつで禮について書き記るされたものです。
仁、そして義、次に禮というように何よりも君子の徳が明らかになったことで顕現する真心の現れをそれぞれの言葉で表現しているように思います。実際はどれも分かれているものではないものですが、それをどの道から入るかが示されるように思います。
その礼記には、色々なエピソードが書かれておりその中から禮とはどういうことかということを学ぶのです。その一つ、特に印象的なものが大学を記した曾子の最期の場面です。
「曾子、疾ひに寢ねて、病なり。樂正子春、床下に座し、曾元、曾申、足もとに座し、童子、隅に坐して燭を執る。童子曰く「華にして睆なるは、大夫の簀か?」と。子春曰く「止めよ!」と。曾子之を聞く,瞿然として曰く「呼!」と。曰く「華にして睆なるは、大夫の簀か?」と。曾子曰く「然り,斯れ季孫の賜なり、我未だ之を能く易へざるなり。元、起ちて簀を易へよ。」と。曾元曰く「夫子の病、帮なり、以て變かすべからず,幸にして旦に至れ、請ふ、敬みて之を易へん」と。曾子曰く「爾の我を愛するや、彼に如かず。君子の人を愛するや徳を以てす、細人の人を愛するや姑息を以てす。吾、何をか求めん?吾、正を得て斃るれば斯に已まん。」と。舉げ扶けて之を易ふ。席に反りて未だ安んぜずして沒す。」
口語訳では、「曾子は病気で寢つき、危篤の状態だった。樂正子春は枕元にすわり、曾元、曾申は足もとに座り、子どもが部屋の隅に坐って燭台を守っていた。子どもは言った「すごく美しく輝いていますね、これは高級高貴な簀なんですか?」と。子春はすぐに「静かにしなさい!」と叱った。曾子はこれを聞いて驚いた様子で言った「ああ、そうだよ」。そして曾子は続けて「そうだ、この簀は季孫の殿が私に下さったものだ、私はまだこれを取り換えることができなかったのだ。曾元よ、立って来て簀を取り換えてくれ。」といった。それに曾元は言いました。「父上の御病気は重篤です、今はとても動かすことはできません、もし幸にも持ちこたえて朝になりましたら、謹んで簀を取り換えさせてください。」曾子は言った「お前の私への愛は彼(子ども)に及ばないのだよ。君子の思う人への愛は常に徳にこそ基づいている。小人の人への愛は間に合わせのありきたりなものだ。私が一体何の道を求めているのか、私は正しい道に適う行いをして死ぬのなら、もうこれでいつも死んでもよいと思っているんだよ。」と。そこで、皆で扶け起こして簀を換えてもとの席に戻って腰を落ち着ける前に曾子は亡くなりました」
曾子は「大学」の中で、「大学の道は明徳を明らかにするにあり、民に親しむにあり、至善に止まるにあり。」と徳を示していました。その徳に報いることを重んじた曾子の人柄を感じる話が礼記には紹介されています。
もちろん真心とは形式ではなく、その時、その場所、その状況によって示し方も変わりますがきっとここでは相手の立場になって思いやって行動したことを曾子が学問によって最期まで実践を尽くしたのでしょう。
お互いを察するということは、もしも自分が相手だったらと思いやることです。それは自分の立場ばかりを考えて保身に走るのではなく、もしも相手が自分だったらどんな気持ちだろうか?もしも相手は自分そのものであるのならどう感じるだろうかと自分と同じように大切にすることを言うのではないかと思います。
礼儀に問題があるというのは、言い換えれば自分のことしか考えなていないということでしょう。保身に走るのは、自分が一番かわいいからです。それを二番にする必要はないのですが、相手を一番にしていくことで自分もまた一番になっていくようにも思うのです。
お互いを慈しみ愛し、そして尊敬するという間にこそ真の禮もまたあるように思います。そしてそれを正しく実践することが義に近づくようにも思いますし、その先に仁の実践も徳の醸成もまたあります。
常に真心を優先して、損得利害の刷り込みに負けないように自らに打ち克って禮に復えりたいと思います。
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最期の最期までという言葉がまさにぴったりはまり、自分自身のここ最近の言動に恥ずかしさを感じます。察してほしいという思いが先立つとろくなことにならず、感謝も謙虚さもどこかに置き忘れてきたように相手の弱いところを突いています。そんなことをしても何にもなりませんが自分を守ろうとし、どんな時でも礼を尽くせているかと問われているのを感じます。応えに自信が持てるよう精進していきたいと思います。【●】
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自分の礼、立ち振舞いが、実はその場しのぎになっていた、、と言うことが多々あるのだと危機感を感じるブログでした。いつも、何のためにと自身に問いかけ、行動することは容易ではありませんが、生き方や、働き方を決めて行く事が助けになると感じています。
頂いた人生に礼を尽くしたいと思います。
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礼儀を重んじるというのも、本来は心があってそれが形になったのが作法なのでしょうが、今は形から入ることが多いように思います。「気をつけ、礼」も幼い頃からただ闇雲に行うことを覚えては何も意味がないのだと思います。形を行う時は心が伴っているかを確かめ、心を使う時は形に現すことを忘れないようにしたいと思います。