子どもの気持ちになって考えることは、子どものすべてを肯定することを言う。
よく子どもだからや子どもは分かっていないのだからなどと、子どもという存在が未熟であるということが前提で考えると子どもの気持ちに寄り添うことができなくなる。
今大人になってみてよく分かるのは、本当に未熟なのはどちらの方なのか、それは私たちの方である。
同じことを繰り返し、生き方として当たり前のこともわからず、いつまでも皆で仲良くなることが上手にできない。
子どもたちは、偏見もなく自然にみんなで仲良くし調和しその中であるがままで接し合い学び合っている。あの笑顔も、あの心の姿もすべては完全であるのに、次第に大人になるということはそういうことをできなくすることを言うのではないかとよく思うことがある。
子どもはできないのではなくやらないのであり、子どもは分からないのではなく分かっているからしないのである。
丸ごと包み込むように子どもの存在を受け容れてみると、そこに偉大な心が働いていることに気づくことができる。
それは、子どもがそうするのはとても深い思いやりがあったりするからでありそういう繊細な優しい心は大人側がその心で寄り添わなければ観えるはずもない。
頭で考えた子どもの姿ではなく、子どもの時に自分がまだ失っていない子どもの感性でどれだけ相手のことを共感できるかということが子どもに寄り添うには重要になるのだ。
今は、誰かに共感し寄り添うというよりも自分のことばかりを悩み自分の考えばかりに囚われ周囲を思いやることができなくなってきている。
個人は自分の未来にばかりに躍起になり、みんなで創ろうとする未来やみんなと一緒の未来を未来とはしていない人もいる。
将来への希望とは、全体の未来があってこそであり如何にこの地球や全体を善くしていこうかと思えば子どもの姿をあるがままに見守るのは大人たちの希望であるはずである。
私たちは子どもの心を見失ってまで何を見ているのか、大事なことは子どもがいるのだから子どもを善く観て子どもの心に寄り添い受容し子どもを信じて生きていくことであると私は思う。
自分たちが解決できない問題も、子どもたちと一緒に考えていくことで将来への希望の種を育てていけばいいだけである。
悲観的にならず後ろ向きに考えず、子どもたちは全体に必要かどうかを判断して自分で生き方を決めていると信じてあげる事である。
私は仕事でも自分の生き方としても、子どもの心から世の中の希望を信じる事をいただいている。この世が素晴らしい、この世界はまだまだ大丈夫だと思えるのは子どもの心から感じているからである。
これからも大事なものを優先できるように、子どもを信じて見守ることをライフワークにしていきたい。