自分というものを理解するのに、誰かからの評価を気にして自分というものを無理にでも作ろうとしている人が増えている。
期待され、その期待に応えようと必死になるうちに本当の自分らしく生きていきたいという気持ちよりも、何とか期待に応えたいと思うようになるのであろうとも思う。
幼い時から、自分がやりたいことを認めてもらえるよりも誰かがやりたかったことをやることでその人が認めていくとなるとその子はずっとその期待に応えることが愛してもらえることだと勘違いしてしまうことがある。
愛してもらうことに必死になっても、その人の期待に応えられない自分に出会ったとき絶望とともに自分らしく生きようと決意してその人から離れるか、その人の言うとおりに従って生きようという二択の選択をするのであろうと思う。
しかし、本来、その人は自分ではないし、自分はその人ではない。その人のようになることはできないのであり、その人の期待に応えるために生きているのではないのである。
人は、自分のために生きるのである。自分らしく生きたいと思うほどに、その自分らしく生きることに期待してもらうのならその子は自由を得て自分を愛されることよりも愛するように生きていくことができる。
その人のことを尊重するというのは、その人らしく生きていくことを認めてあげることなのである。
それを否定してしまえば、また期待に応えようとするか期待に反してでも好き勝手なことをして困らせるかになってしまい人間関係はまた傷つけあうように愛憎になったりとしていくのだろうと私は思う。
愛されるよりも、愛したいと思える関係とは、自分が相手の評価や相手の期待に対して無理をすることではなく、あるがままの自分でいることに無理をしないことなのである。
それは、自分らしく生きるということに無理をしないということ。そして自分らしくいることに正直でオープンにしていることである。誰かの顔色を見て、誰かの評価ばかりを気にして、自分を周囲にあわせていけばそのうち無理がきてどうせ長続きせずに壊れてしまう。
そうであれば、自分から周囲へ自分らしくいる人を認めていくことであり、そのままがいいということを自分から率先して行動していくことであり、自分らしくいることで自分を愛し、他人を愛することを実践していくことである。
いつまでも仮初の自分と付き合って人生を終わるのはあまりにももったいないこと。もっとあるがままの自分でいるように無理をしない自分でいるようにとするのは、そういう自分のあるがままを受け容れてしまうことである。
それでいいというよりは、そのままがいいと思うこと。
そのままの善さが引き出されれば、人はその人らしく輝いていくもの。子ども達には、そのままがいいとし見守りの心で自分らしい人生を送ってもらえるようにまずは自分からその実践を楽しみたいと思う。
過去のトラウマや、今までの傷が疼いたとしても自分が無理をしないで生きていくことが人のそういうものを取り除けるのならばと成長を優先する勇気が子どもたちの未来を創るのだと思います。