感謝というものを思うとき、いつもいただいてばかりで申し訳ない気持ちになります。
誰かの為にと思いやり、自分の使命に従って行動しているだけですがそれがまるでやっているとは思わずにどうしてもやらせていただけていることに気づくのです。
それはまるごとのことであり、やらせていただける上にさらに費用をいただき機会をいただき、ご縁をいただき、学びをいただき、感動をいただき、そして感謝をいただけるのです。
こんなにいただいてばかりで大丈夫かと心配になるくらいに御蔭様をいただいている自分に驚くのです。そう考えていると世の中のすべてのものは、「いただきもの」であることに気づきます。
いただいたものを感じるとき、同時に「活かされている」ということにも気づきます。
活かされているのだからもっと周囲を活かしていきたい、感謝しているのだから感謝を返したいと思えるのです。自分がいただいていると思えば思うほどに、何かに御恩返しをしなければという気持ちになっていきます。
そしてそれは直接では返せず、なんとも申し訳ない気持ちになりますからその分は精いっぱい自分を生き切ることで皆様にお返ししたいと願うようになるのです。
豊かさというものは、器量や財力、能力や容姿などを言うのではないと思います。真の豊かさというものは、「いつもいただいているのだからありがとうございます」と感謝を実感できる人がもっとも心の豊かさに活かされるように思います。
いただいた機会に感謝しているか、いただいているご縁に感謝しているか、いただいている存在に感謝しているか、そしてそのすべてまるごとの見守りにありがとうございますと生活できているか、ここでの生活とは全身全霊で生き切っているかという自問自答のことです。
何かされた分だけをやるとか、何かいわれたことだけをやるなんていうのはそこに貧しさがあるように思います。言われていないことができるのも、言われたこと以上をできるのも、そこに確かな豊かさを還元しようとする生き方が存在しているように思います。感謝の言葉であるいただきますというものの本質は「もったいなくいただいたこのいのちを有難く活かします」ということなのでしょう。
「自他を活かすというのは、全身全霊で自分を生き切るということでそれが感謝なのです。」
目には観えませんが確かに存在している感謝の心を、自分の生き方を通して世界へ御恩返ししていけるよう日々の一期一会を噛締めながら自分にしかできないかんながらの道を歩んでいきたいと思います。
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菩提樹の花を「雪が降ったように真っ白」と話を聞き、実際に見てみると菩提樹の周りだけまさにその通りでした。散ったと見るか咲いたと見るかでは大違いで、同じ道を通っていても気付かず、今日もまた大切なことを教えて頂きました。感謝に気付ける自分自身の心を養って行きたいと思います。【●】
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与えられていても気づかなければそれまでです。与えられていることに気づいても、それをきちんと受け取れなければ生かし切ることはできません。ほんとうは、この命すら与えられているのでしょう。今日という一日を与えられていることを、きちんと受け取れていないから、生かし切れないのかもしれません。「不足」ばかりを見つめているから、与えられていることすら気づかず、自分の都合で「取捨選択」しているから、いくら与えられても豊かにならないのでしょう。少なくとも、気づいた分だけでもきちんと受け取れるようにならないといけません。
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身近な人になればなるほど与えて頂いている事を素直に感じ取れず、自分の感情で受け取り、勘違いをしている自分がいます。この勘違いは、そもそものものの考え方、出発点が間違っていることを教えて頂いています。頭の理解は進みましたが、何の意味もなさないのは心が変わって居ないからだと痛感します。行動を変えて行きたいと思います。
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父の日に、父へありがとうの気持ちを贈り、父として子どもから手紙をもらい、二人をつなぐ存在として自分が活かされていると感じました。行いは小さくても心を大切に、自分のいのちの有難さを感じることから拡げていきたいと思います。