何かを判断する際に、今というものをどう解釈しているかで判断が変わってくるものであろうとも思う。
今というものを肯定して受け容れている人と、否定している人ではその判断軸はすべて異なってくる。
今というものに感謝し、充実した生を送る人は起きている出来事の全てに意味を感じて丁寧に前向きに自らの道を歩むことができる。逆に、今というものに満足せず感謝を忘れてしまえば、どの出来事へも不平不満を持ち後ろ向きになってしまうもの。
時というものは、面白いもので流されていく人と流されない人がいる。
流される人はマイナス思考で今に不平を持つ人たち、流されない人は今というものをこれでいいのだと全肯定できる人たちである。
今、この瞬間、今、このすべてに命を懸けて生きる人は人生に絶望したりすることはない。真摯に、今、改善すべき課題に一生懸命になれるからでもある。
そうではない人は愚痴ばかりをこぼし、何かあると自責の念にかられて何を真摯に取り組むべきかという目標についても覚束ないままになる。
人間は、自分がどのような心構えでいるか、今というものをどう捉えるようにするかで、時というものと心というものを感じているのであろうと思う。
以前のブログで、時=心であると書いたけれど今の自分の心の在り方こそが時であるのだから如何に今を大切にしているのかということがすべてである。
今を大事にできない人は、時を大切にすることはできない。時を大切にすることができないのならば、今は大事ではないということである。
この今はいつも最高の今という風に、今を更新していくことこそ時を豊かに充実して更新していくことでもある。
後悔しない人生とは、今というものに感謝して満たされている心で感謝と御蔭様をいつも心に抱き生きていく人生でもある。
自分が今あるのは、一体誰の御蔭であるのか、一体何の御蔭であるのかと考えれば今が観えてくる。その今というものがあるのは、自分が時を大切にしてきたものの集積で成り立っているのである。
だからこそ、今、この一瞬に真心を籠める生き方こそが時を豊かに一期一会にあることでもある。
人を幸せにするには、自分を幸せにする力がいる。自分を幸せにするには、今に満足し感謝して生きていく力を育てていくことでもある。発達というものは普遍性が存在する。
発達を見守っていく中で、真の仁慈の繫がりが新しい時代を築くのであろうとも思う。これからも、今というものを大切に生きていこうと思います。