人は自分を責めすぎて許せないとき、自分というものを見失うように思います。また自他の評価が気になり、自分自身の価値を正しく認めることができないときにも自分を見失うように思います。
この自分を見失うという心理は、自分のことが分からないということです。
人は自分が自分のままでいい、あるがままの自分がいいと自分を認めることができているときは心が穏やかで平安が訪れています。しかしひとたび、自分を否定し、自分を認めることができなくなると自分のことを許せずに自分との関係が崩れていきます。
これは別に自分自身だけのことを言うのではありません。たとえば、他人との人間関係であっても相手のせいだと相手に求めたり、自分のせいだと自分を責めすぎればその人との人間関係に亀裂が生じるのです。
自分のせいだと責めすぎるのも、相手のせいだと責めすぎるのも、どちらもバランスが崩れて信頼関係が壊れてしまうのです。
これは外側だけで起きるのではなく、内側でも起きるものです。自分の内側で先に自分自身との関係が崩れれば、そのまま外側の人間関係も崩れていきます。
人間は人間関係がほとんどの苦しみである以上、如何に自分自身との信頼関係が大切かということなのです。
たとえば、自分自身が厳しすぎる場合、相手を甘やかしすぎることがあります。逆に他人に厳しすぎる場合は自分が甘えている場合もあります。これも自分自身との関係が周囲に及ぼすのです。
他にも、自分が嫌いになれば、どうしても相手を好きになることができません。自分自身のことを褒めるから他人を褒めることができるのです。自分自身のことが自他一体のことでもあり、如何に自分自身との関係を築けるかが人間事においては大切なのです。
感情の波が時折、揺れ動く中で如何にそれを受け容れるか、許してあげられるかは、その人の過去の体験から乗り越えたことによって癒せるのかもしれません。無理に直そうとするよりも、如何に自分を許すことで癒すかということが心の労いになるのです。
自分は本当によくやっている、自分はよくついてきてくれる、ありがとうという気持ちがあればそれが周囲に及ぼし同じ気持ちになるのです。どうしても頑張りすぎてしまうのは、責任感があるからですし使命感があるからでもあります。頑張ればうまくいくと考えてしまうのは、真面目過ぎる証拠なのです。
真面目過ぎるからこそ、そこに大切な愉しむという遊びの心を添えてあげることで自分を見失なわずにいられます。人生は自分自身との付き合いで、どんな境遇やどんな状況になっても一人ではないと実感でき孤独にならなくなります。自分を大切にすることができれば人を思いやれる自分でいることができますし、その思いやりが自分をより大切にしていきます。
一番身近な自分との対話を大事にする時間、それを内省といいます。内省をすることで、はじめてもっとも身近な自分自身との対話を通して心の平安を得られるのです。そしてそれを他人と行うことで心は対話し合い、お互いを許しあい認め合うことができるのです。
そうして自分自身との付き合いが様々なところで折り合いをつけることができ、認め合い信じ合うことができればその信頼関係が自信になり、多くの同じように悩み苦しむ人たちの救いになるように思います。
私の信じる心を救済する志というのは、自分の体験をそのままに他人様の御役に立たせていただけることで実行になります。人々がみんな同じような苦しみから解き放たれるよう、さらなる自分自身との信頼を築きあげていきたいと思います。
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自分を責めたり、人を責めることよりも、許すこと、楽しむこと、感謝すること、その行動を常に大切にしていくようにしていきたいと思います。一つ一つの体験はありがたい機会だからこそ、有難い物として受け取り、そして自分自身も周りも幸せになるように行動していくことが大事なのだと感じます。自分自身が今いただいている機会も、まさにそういう意味で頂いているのだと感じます。頂いている見守りに感謝で恩返しをしていきたいと思います。
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「自信と謙虚」とは、かつて尊敬していた方から教わった言葉ですが、当時はそのバランスが大事なのだと理解していました。ですが今はそれが一体なのではないかと感じ始めています。偏ったりバランスをとろうとするのではなく、一つの姿勢で自らを高めていきたいと思います。
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先生たちを見ていると「保育士っていいな」と感じています。楽しそうに写真を撮ったり自園に戻ったらこうしようとか、園の子どもたちのことを考えたり、見学中も遊具があれば本当に楽しそうに遊んだり、
見ていて羨ましく感じます。そこに携わらせていただける嬉しさと日々を重ねるごとにお互いを知り、
楽しく学ばせて頂いていることに感謝の気持ちが湧いてきます。気づいたらあと僅かですが今この時を大事にしたいと思います。【〇】
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自分に対しても、他人に対しても、責めている間はまだ付き合えます。しかし、許せなくなって、裁いてしまうと、それ以上付き合うことはできません。「対話できる」というのは、まだ「付き合ってあげられる」ということでもあるでしょう。愚痴、言い訳、不平不満も、勝手な言い分も、まだ聞いてあげる余裕があるということです。「付き合う」ということ自体が、認め、許し、信じているということであり、「対話できる」かぎり希望があります。自分に対しても、他人に対しても「対話し続ける努力」が必要だと感じます。