昨日、出張の合間の待ち時間に大阪の神社にて夏越の大祓い「茅輪くぐり」をする機会がありました。
茅輪とはその名の通り、茅(かや)でつくった輪のことです。茅とは私たちは今は無縁ですが、昔は茅葺屋根などで必需品であり、その茅を用いて牛の餌や田畑の肥料として活用していました。この茅は古事記では、鹿屋野比売神(別名のづちのかみ)、または日本書紀では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)といい、これは草の神様ということです。
そして茅輪くぐりの由来は、神代の昔、素戔嗚尊が南海の方へ向かう途中に宿を求めた神話が切っ掛けになっています。この時、尊が土民の蘇民将来(そみんしょうらい)、巨旦将来 (こたんしょうらい)という兄弟に宿泊を求めところ弟の巨旦将来は 裕福な身であったにも拘わらず宿を拒んだのに対し、兄の蘇民将来は、貧しい身であったが 尊をお泊めし、栗柄を以って座を設け、栗飯を饗して接待しました。 その後、年を経て尊は再び蘇民将来の家を訪れ、「もし天下に悪疫が流行した祭には、ちがやを以って輪を作り、これを腰に付けておれば免れるであろう。」と教えたといいます。
この初夏の時期は昔から天災としての水害に見舞われ、また身体も水により病が流行したのでしょう。そこから、天神地祇である八百万の神々を奉り、直毘を忘れないようにと幸魂、奇魂が天地に和するようにと祈りを捧げたのではないかと私は思います。
先日も自然農の田畑で群青する背丈ほどの茅を刈り、それを畑に敷き詰めましたが茅は直接触れると肌が切れて痛みが走ります。また慣れていないと、そこが腫れてヒリヒリするものです。そして茅は根が深く、その根元には蟻の巣ができていたりします。
かつての祖神たちは、生命力があり草原に悠然と生えるこの茅を草の神様として奉り、草は敵ではなく八百万の神様なのだと信じたところにそれを活かすという智慧が生じたのかもしれません。
なぜ茅葺にしたのか、古代に思いを巡らせていると直観したことがあります。
茅というのは、水をはじく性質があります。同じイネ科ですが、稲は水分を大量に必要とするのに対して茅は油分が多く水をはじくのです。屋根に稲ではなく、茅を用いるのは天からの雨をはじく、水害から家を守るという意味でもあったのでしょう。
天津神は、私たちの祖神である国津神に自然をよく観察しなさいと諭しているようにいつも感じます。よく観ればそれは活かされるものだと語り掛けてくるように思います。この時期は、水にあまりにも濡れないようにと草の神様の神通力をお借りするようにと工夫することを伝承していたのでしょう。
茅葺屋根がなくなったにせよ、茅は野の精霊であり一家の守り神の一つです。祖神たちはその自然の生命の一つ一つから生き方を学び、その自然の御力を自らで引き出していたのでしょう。
引き続き、直毘の感応が遊ぶままに心愉しんでいきたいと思います。
コメント
目には見えなくても何か不思議な力が働いたと思うと、不思議と嬉しくなります。泣いても有り難いと思えるのは一目会うまで待っていてくれたと思えるからなのかもしれません。八百万もいると中にはきっといたずらなのもいるのだと思います。その気まぐれに救われたような気持ちです。【○】
コメント
人間が生きていくために必要なモノは、すべて自然のなかに用意されています。衣食住はもとより、薬など問題解決の方法に至るまで、すべての原料と材料が用意されています。そのまま使えるものもあれば、人間がひと工夫加えることによって、役に立つものに変わるという発展の仕組みまで用意されています。そのネタは、未だに尽きることがありません。これだけの豊かな環境を最初から完璧に用意し、人間の成長を見守ってくれる存在に、改めて感謝したいと思います。神とは愛であり、智慧であり、環境そのものなのでしょう。
コメント
この時期、体調がおかしくなることを感じます。暑いので水分が必要ですが、飲んでも渇きがおさまらない事があります。季節に身体が追いついていない症状だと感じますが、少し自然と共にする時間が必要なのかもしれません。それは、自然の中にはいるというよりも、季節や今に感謝することや、自然への学びを深めることのように感じます。朝日の美しさを感じながら走りたいと思います。
コメント
身のまわりにある今の文明というものの中にも、自然の特性を活かしたり真似たりしたことで生み出されたものが多いように感じます。一つ一つの違いを活かし合えるような生き方をしていきたいと思います。