身近に気持ちを汲みとる

知識を持つということと人の気持ちが汲みとれるようになることとは同じことではないことは誰でも知っていることだと思う。

しかしなぜか知識ばかりを先に詰め込み、きっとこうなんだろうと大よそのところで推察することを覚えて実際に心で感じることをしない人が増えている。

そしてそういう人たちが偏った形で変な運動をしていくからまた世の中におかしな共感が広がっていったりする。運動をすればより忙しくなる、人間忙しくなり余裕とゆとりがなくなれば他人の気持ちは正しく汲みとることができない。

例えば、現場で感じることでこだわる場所が変だと思えるものがある。

子供の供は、供えるや従えるという意味になるからそぐわないとし平仮名に変更とする、また障害者の害という字はよくない字だから変更するというようなことを議論しそれを推進していく。

そういうことをいちいち気にする暇があれば、もっと今の社会全体がどのような眼差しで子どもや障がい者のことを思いやるようになっているのかなどについて共感してそこから善いことにしていくようにするべきではないか。

もともと自分たちの都合が良いようにするために、知識を上手に駆使しもともとあった自然な姿を壊していくのは自分たちの相手の気持ちを汲みとる力が欠けてきているからではないか。

何でも詰め込もうと、知識で修正しようとすることは無理がある。知行合一ではないけれどちゃんと感じて実行したことを内省し、それを智慧として改善するというような循環にしなければ本当の意味で取り組んでいるとはいえない。

まず共感は本人たちや当事者が、どう感じているのか、その気持ちを汲みとる方が大切で議論すべきはもっと現場の声を重視することではないか。

彼らが社会に望んでいることを汲みとってあげることではないか、言葉の定義や意味づけとしては大切なことだろうが現場とはあまり関係がない特別なことばかりに目を向け、当たり前のことをおざなりにするのは知識に偏った人ばかりで進めるからであると私は思う。

情報を正しく理解し、如何にその情報を発信し受信するかは身近な現実の人たちに共感して生きる事であると私は思う。

もっと日々の身近な人々に心を配り、慮り謙虚に接して感謝していくような実践が大切で、こういう情報過多の知識偏重の社会だからこそ身近なところから気持ちを汲みとることを忘れないようにしていきたい。

目の前の人や、身の回りの人たちを大切にしていくことが世の中を善くすることであるのだから。

一人一人が相手を思いやることから取り組んでいくことが、御互いを活かし合う有意義で豊かな社会を創造していくことを忘れてはいけない。すべては自分の身近なところから取り組んでいくことだ。

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