人間には誰にも天与の才能があります。
これは天は、あまねく人々すべてに何かしらの役に立つ才能を与えているということです。一見、何の才能もないように感じることもありますがそれは役に立てるように才能を使っていないだけで何か必ず役に立てることがあるのに出会っていないだけともいえます。
人はその天与の才能があることを忘れて、才能を私物化しようと様々な能力を求めます。しかし実際に与えられている才能は人それぞれ異なり、それを活かすことの方がいのちも歓ぶのです。
なぜ才能を私物化してはならないかといえば、不必要なものを生んでしまうからです。誰か一人が完ぺきに才能を持ち、ありとあらゆることを自分で完結してしまうならその時、必要と不必要が発生します。
できる人は必要でできない人は不必要になります。みんなが一斉に同じことができるようになれば、それができない人たちは要らないということになってしまいます。たとえば、極端ですがお米以外の作物は必要ないといってしまえば、どの野菜も全部お米のように改良するとします。そうであれば、お米以外のものは人間には必要がない、不必要だから邪魔な存在になるのです。
実際に、人間の都合や自分の都合で要るとか要らないとかを分別するほどにこの世から不必要なものを排除しようとしているのです。都市を観てもわかるように、人間社会に要らないものは置こうともしなくなっています。
本来は、八百万の神々がいるこの日本は、すべてのものには何かしらの神様が宿ると信じられてきました。ゴミと西洋では呼ばれるものでさえ、私たちの国の神話ではそこに必ず神様の名前があり、それを尊び守り重んじ大切に祈りを捧げてきました。
私たちの祖神、先祖たちはこの世には一切の無駄はなく、一切の無用もない。すべてが神様の化身なのだからそのいのちを大切に使われていただきますという姿勢でいのちを活かしてきた民族だったのではないでしょうか。
今のように循環しない、ゴミや無駄や不必要に溢れた世の中になったのは天与の才能を人間に都合がよい才能だけにしてしまおうという傲慢さの現れではないかと思います。
あの雑草と呼ばれる草にも、害虫と呼んでいる虫たちにだってとても大切なお役目があります。その御役とは、天才があるということです。みんな生きているこの世のすべての生命は、天与の才能が与えられているのです。
その才能が適材適所に配置されるとき、この世はまるで楽園になったかのように幸福な世界が顕現するのです。
才能を無駄遣いしないというのは、自分にしかできないことをやることです。言い換えれば、自分の天才を活かすことです。天才は、何でもできることがいいわけではなく、自分のままでも世界の御役に立てる方法を自らが発見発明していくことです。
そして真の教育者とは、そういう天才の徳を見出し、その徳を活かすために配慮し、環境を用意しその発育や成長を見守り「いのちの働き」を活かすものだと私は確信しました。
今の時代は、知識を教え込み、天才を無能にしてしまうようなことを刷り込みます。しかしそのことからいのちが悲しみ嘆き、自分は何者なのかと苦しみ病気になる人たちが増えています。働くことで仕合せを感じていたはずが、マニュアルによって仕事ができるようにさせることでより一層いのちの使い方を間違い、そのことからさらなる無駄と不必要をつくり、それを解決するために膨大な資金や労力を使わせています。
先祖たちはいのちの法理を知っていて、この世には一切の無駄がない、神々がいる世界にこの世を近づけていたのです。それをこの100年程度の西洋の文化がすべてにおいて優っているという思い違いが氾濫することで、私たちが先祖代々、何よりも大切にしてきたいのちの法理をも忘れてしまうのは本当にもったいないことだと思います。
私の志す、かんながらの道にはいつも八百万の神々がその見えざる姿、聞こえざる声によって自然を通じて何が大切かを親切に手ほどきをしていただきながら教えてくださいます。自然から学び直していると、自然は一切の無駄がなく一緒につながり絆を育みながら共生しあい貢献しあい、あるがままにそのままに天才を活かし仕合せを生きています。
子どもたちにはそういう世界を譲っていきたいと切に願います。
三つ子の魂の救済を、ご縁と支えられている皆様への御恩返しとして自らの天才を存分に発揮しつつ実現させていきたいと思います。
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才能は皆との働きの中で活きるのだということを思うと、
仕事のために才能を使うのではなく、才能を働かせること。
それが本質なのだと感じます。つい、関わらずとも、進められるように、自分の思い通りに、楽をしたくて、仕事のために才能を使ってしまいがちですが、人のお役に立つように才能を働かせるということは本当に意識が否定、邪魔をすることを感じます。それは、元をただせば、自分自身の周りへの不信。古い価値観があるのだと感じます。みんなでやること、関わりの中での才能の開花を信じて歩んでいきたいと思います。
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「有能」とは、「能力が高いこと」であり、その基準は、「客観的な優秀さ」にあります。一方、「有用」とは、「役に立つこと」であり、その基準は、「相手の喜び」にあります。すなわち、「有能さ」を求める生き方には、自分の優秀さのみがあり、相手が見えません。対して、「有用さ」を求める生き方には、目の前にひとりの人間とその人が抱える具体的な課題があって、その人のために自分が動こうという思いやりがあります。世間には、この二種類の基準があるために、多くの人は、混乱しているように見えます。「天与の才」を発揮するには、「客観的な有能さ」ではなく「具体的な有用さ」を求める生き方が必要なのではないでしょうか。
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「この世には一切の無駄はなく、一切の無用もない。」とは、なんて優しく愛に溢れている言葉だろうかと思います。もっと相手の善いところを見て、相手の天才を感じていくことの大切さ。これは相手だけでなく自分自身に対しても同じことが言えるのだと思います。大人になる中で教育というものを受けますが、沢山の知識を身に着けることをその目的とするのではなく、幅広い体験の中から自分の天才に気づき、それを活かす方法を学ぶことが出来るような教育であって欲しいと願います。自分は掴めているか、確信できているか。今この機会に再びそれを問われているようです。
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天才バカボンの「天才」は何が天才なのかと思っていましたが、天から与えられた才と思うと、色々と繋がるところがあります。故.赤塚不二夫の告別式でタモリさんが「私もあなたの数多くの作品の一つです」と弔辞を読み上げたところからもそれを感じます。発明家エジソン、バスケのマイケルジョーダン、イチローもこれまで思い込んでいた天才ではなく、与えられた才能を活かしていたからなのだと感じています。自分の持つ何かで喜んで頂けるのなら、精一杯使っていきたいと思います。【●】