人間をはじめ、すべての生き物にはできることとできないことがあります。
たとえば、ライオンが鯉にはなれないように太陽が海にはならないようにそれぞれにはそれぞれの役割というものがあります。ひとつで全部の機能を持つというのは、石が空を飛び、樹木が走るようなものです。そんなものをその特性は必要としていません、それはそのいのちが余計なことをしない方が自分が役に立つことを知っているからです。
生きものというのは不思議で、無理に役立てようとするよりも自分のままでいることが誰かの何かの役に立つということを信じている方が役に立てるように思います。無理にクワガタが蛇にならなくてもいいし、お米がトマトを目指す必要もありません。
しかし人間は、誰かと比較され一斉に社会に求められた能力を獲得していく過程である一定の能力がある人を高評価するようになってきました。学校でいえば優等生であり、会社でいえば経営者などもそうです。能力が高い人がもっとも価値があるかのように評価されれば、能力の低い人たちは無能というレッテルを貼られるのです。
そういえば昔、成績が悪い時、クラスの平均点を下げるからと補習を受けていました。その際、無能の集団だと言われみんなにバカにされたことも覚えています。私には他に自分には数々の特殊能力があって自信があったので気にしていませんでしたが、真面目な友達は深く傷つきこのままでは役に立てない親不孝だと嘆いていました。
植物や動物、昆虫にいたるまで成績が高いから生きている生き物は皆無です。実際は、時分らしく生きている生き物たちが周囲の中でお互いを有益につながりあい、無益な争いは避けようとします。
しかし人間だけは、いつまでも無益な争いはやめず、有能かどうかで人を裁きます。有能ではない人間は社會の邪魔者扱いされ、有能な人間だけはスターのように周囲の憧れになっています。
他人の役に立ちたいと能力ばかりを磨いてきても、役に立っている実感がないという人が世の中にはたくさんいます。先日も、自分が役に立ててないと泣いている先生たちと話す機会がありました。
そのどの方々も能力はずば抜けて高いベテランの先生方です。能力だけで役に立つのではなく、自分の存在で役に立つことは人に親切にすることだと私は思います。どんな人でも、親切にしたいと願い行動するなら必ず誰かの御役に立つことができるからです。
私は、困っていることがたくさんありますし何回も困っている場面に出くわします。そんな時、困っていたら周りの方々がいつも助けてくださいます。周囲はとても親切なのです。その親切を受けているからもっと自分も周りに親切にしたいと願うようになりました。
人は有能かどうかよりも有用だと昨日のコメントに書いてくださったのは本当にその通りだと思いましたが、そのうえで親切にすることは何よりも大切だと改めて私は確信するのです。
毎日、一つでもいいから他人に親切にしていれば必ず自分が誰かの御役に立つことを自覚できるように思います。困っている人を探したら、自分が力になってあげる、その力がなかったとしても一緒に考えてあげる、それだけでいいのです。
生きるということは時折つらく苦しいものだと思えます。そんな時、仲間がいたり、友人がいたり、自分のことのように共感し援助し励ましてくださる方と出会うことで生きることが楽しくなり、周囲の御蔭様を知り有難い気持ちに心が幸せになるものです。
人は誰かを信頼し、誰かの役に立つために親切にしていけば、自ずから自分の価値を正しく学べるように思います。本来の社會とは、もっとも身近な人たちのために親切にしていくことだと私は思います。
子どもたちにも、能力が高いから優秀なのではなく、人に親切に生きているからこそ価値があるのだということを背中を通して伝えていきたいと思います。自分ができるかできないかはわかりませんがいつもたくさんの方々の支援の中で自分の道が歩めています、その御蔭様に感謝しつつその御恩返しを今日会う方々、明日会う方々へと譲り渡していきたいと思います。
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見学に行ってからというもの、自分の価値観、行動に、悲しくなる機会が2度ありました。
有能を誇り矢印を外に向ける自分を見たからです。自分をいかに用いるのか、、と言う、意識が
本当に大切であり、豊かさであり、幸せだと気づいてしまったからこそ、心に鈍い痛みが走っています。以前は感じなかった事を思うと、この痛みを感じられることが、まずはありがたいと思います。痛みをサインと受け止め、有難く変わって行きたいと思います。
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「能力」は、使って初めて価値が生じるものであり、実際に役に立ってこそ意味のあるものです。また、能力があればいつでも使えるというわけでもありません。「その人を思いやる心」がなければ、相手には届かないものです。「他人事」である限りは、何をしてもお役に立てないでしょう。逆に、相手の親切心を素直に受け取れないのも、思いやりに欠けます。大事なのは、「他人事の世界」と「自分事の世界」のどちらに生きているかということではないでしょうか。
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こんな自分でも人を笑わせ元気にさせたり、頼られたりちょっとした行動が与える影響力を実感しています。親切なのかお節介かは分かりませんが、それでも相手のために自分を使っているとき有用に近づくのかもしれません。見守ることも距離感が難しいですが、同じ位親切も難しく思います。はじめは距離感を見誤ることもあるかと思いますが、だからと言って避けずそこで自分自身を使っていきたいと思います。【○】
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ふと目の前のご年配に気が付いて席を譲ったり、前を歩く人が物を落とせば拾って渡したりと、とっさの出来事に自然と体が反応するのは頭よりも先に心が動き出すからなのかもしれません。それを思えば、本来の心は親切に生きることを強く望んでいるようですが、ここに頭で考える余地が入ると、途端に動きが鈍くなる場合があることもまた実感としてあります。いつも心が望むままに生きられるよう修練を続けていきたいと思います。