先日、見学した日本理化学工業で大山会長は「利他心」の大切さを教えてくださいました。この反対に利己心というものがあります。
これはどういうものかということを考えてみることにします。
利他心が人の為に自分を尽くしていくことに対して、利己心というのは自分の利害のために動き他人のことを考えない心のことを言います。利他で生きる人は、常に自分の心も感情も澄まされていますが利己で生きる人は嫉妬、不満、不足、不安、怒り、恨み、悪感情に苛まれています。
そもそも人間というのは、波があるものです。心が澄まされ清らかであればあるほどに相手のことを思いやり他人のために自分を尽くせることに幸せを感じられるものですが、ひとたび自分の感情に呑まれれば正しくないようなことを平気で行っていたりするものです。
自分が大変だと余裕がなくなれば余計に心は乱れ感情も波立ち、まるで嵐のような世界の中で暴走する車のようになってしまうものです。利己心が働くときはそういう時で、そうなってしまえば他人の迷惑なども顧みず好き勝手に我儘をして周りを困らせてしまうものです。
直接的に困らせてはいないと本人は自覚していても、実際はその波長は必ず周囲に影響を与えます。私自身も、その波長をもつとすぐに周りに似たような人たちの波長を感知して伝染してしまいます。これをメンターは波長同通の法則と仰っていましたが、言い換えれば自分の波長次第でいくらでも貢献することができるということです。
もしも自分の波長が、正しいことをさせてください、他人に親切にさせてください、誰かの御役に立たせてください、子どもたちのために力を使わせてくださいと祈るように実践していれば、自ずからその波長が周囲を巻き込み、周りも同じような波長の人たちが集まりご縁はさらに善い方へと広がっていくように思います。
しかし逆に利己心に呑まれてしまえば、自分自身の身中の虫、己心の魔、己そのものに負けてしまいバランスを崩して外界を破壊するような暴挙に出てしまうかもしれません。そうなっているときにいくら感情を抑えようとしてもすでに利己心に呑まれているのでそれは取り払うことができません。
先祖たちはそれを自覚していたからこそ、神社に参拝し心を澄ませる精進を怠らなかったのではないかと私は得心しています。つまり清めたまえ祓いたまえのことです。心を澄ませるというのは、いつも神様と同じ道を歩んでいるというかんながらの真心で生きることだからです。
それは自分が真心であったか、思いやりで実践できているか、その学びが他人の御役に立てているか、誰かの幸せのために自分を尽くしているかと、常に自分を正しい方へ、誠の方へ、感謝の方へと自己実現させているかということに由るように思います。
克己の工夫というのは、如何に自分の心を澄ませていくのかということに尽きるように思います。利己心の魔を退治するのは、利他心の澄んだ真心です。
これは人間生きている以上、「生き方=活かせ方」ですし「働き方=働かせ方」ですから日々に修養を怠らず、常に自己との対話と内省によって高めていくものだと私は思います。
言うのは簡単ですが遣るのは一生であるのがこの自分を修めるということです。日々、正しいかどうか、誠かどうか、心が澄み渡る利他心で歩めるように先に自らが魔が入る隙を与えないくらい心と正対し、善なるご縁を大切に有難い一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。
今の時代、人々が神社に穢れを祓いに行くことも少なくなりました。子どもたちの魂も今は色々な大人の波長で影響を受けています。だからこそ逞しく健康を心がけ、かんながらの道を弘め、自らが動く存在として市井の中で正しい自己実践に努めようと思います。
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黙っていても、機嫌が悪いなど心が乱れている人の波長は周りに影響します。ましてや、地獄言葉と言われるような粗く感情的な言葉は、一気にその場の空気を変えてしまいます。一人ひとりが、自分の出している波長・波動を整える努力をすることは、職場の環境づくりとしてもとても重要です。仲間に声をかける前に、心を整えるための一呼吸を置くなど、日々の工夫も大事でしょう。また、乱れた心をすぐに戻せるように日頃から修練しておくことも必要です。健康管理と同じくらいに意識できるといいのではないでしょうか。
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大山会長にはお会いしたことがありませんので、著書の感想からのイメージになってしまいますが、周梨槃特も会長のような人であったのではなかろうかと思います。どちらの方についても詳しく存じ上げている訳ではありませんが、何故かそんな印象を受けます。
学生の頃「日本でいちばん大切にしたい会社」を読み、会社で障がい者を雇用しているなんてすごいなと思っていましたが、今は働く幸せについて伝えられていることに気付きまたすごいなと感じています。学生の頃学んだことや体験したこと、そのことが今改めて活かされようとしている気がしています。この機会を自分自身がどう活かしていくかなのかもしれません。忙しくなると目の前に追われ小さくなりがちですが、そもそもカグヤで何をしたかったのか今一度振り返りたいと思います。【●】
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昨日の講演の中に「道徳心とは、自分が相手だったらどう思うか、相手の気持ちに心からなること」とありました。その時にふと気付いたのは、普段の行動の中には自分の都合を優先し、自分が持つ過去の経験やパターン、自分が持つ社会の常識というものを使って「自分が相手だったらどんな気持ちか、どんな風に思うか」と問いかけることを辞めてそれにすり替えてしまっていることがあるのだと気づきました。そして、その自分が持っているパターンが道徳的であるかを試すかのように、利己的な行動をとっているのだと気づきました。改めて利他とは、自他一体であり一期一会なのではないかというイメージを持ちました。
道徳心を利己的に使う事のないように、自分自身を修めていきたいと思います。
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視野が狭くなればなるほど自分のことしか見えなくなりそうですが、実際には自分すら正しく見えていないから視野が狭まるのかもしれません。何のためかを見失わないよう気を付けたいと思います。ありがとうございます。