役割に自ら由る

久遠の流れに身を委ねるような自然と出会うとき、時というものを止めて観えるものもある。

生きているととても短いサイクルで生涯を感じて、様々なことを短絡的に悩み感情的になり朽ちていく儚さや老いていく虚しさなどに心を奪われるものもある。

自由に生きるというのはどういうことか、自由とはそのままでいるということを感じることかもしれない。

とても長い長い時間の中、それは数億年、数百億年という時間の中でそのすべてを感じて委ねるようなものであろうか。

人はそういうものを感じるとき、無心に何かを覚えるのではないか。

目の前の今に集中することも久遠を感じ、万物自然の姿に畏敬を抱くときも同じく悠久を感じることができる。

時を同じくし、時と共にするということは、その自分というものをどの観念に委ねるかということを定めているようにも時折感じることもある。

日々に意味を感じることや、今に繋がりを感じることは、万物が流転することを知ることになり、その知覚する場所で全体の一部としての役割を覚るのが命なのかもしれないとも思う。

かの空海の足跡を辿れば、霊地巡回の旅にて人々にそれを如何に伝えるか、そこから如何に苦しみを取り除けるかという実践において私たちが自然の一部分に過ぎないことを様々な自然の叡智と一体になるものを刻み試みた。

雄大な自然に抱かれて生きるものは、自然のあるがままを体現するもの。

どんな役割があるのか、自分にしかできないことを思い出すのは自然に生きることを思い出すことでもある。

因果応報の摂理に添って、自ら由るように歩んでいきたい。

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