何かを好きになるというのは、好きなところをもっと好きになることを言う。
しかしこれを勘違いして、嫌いなところを無理をして好きになろうとしている人がとても多い。
例えば、幼いころの食事ではピーマンが食べれないのを無理をして何度も食べようとして食べれず吐いてしまうようなことがある。その都度、自分がなぜ食べれないのかと責めたりするのは周囲がもっと食べてとか、なぜ食べれないのかと好きにさせようとする力への抵抗からでもある。
幼いころに無理に嫌いなものを好きにさせられたり、好きになるように仕向けられたりすると反動でいつまでも好きなものをもっと好きになるよりも嫌いなものを何とか好きになるように努力しなければならないという刷り込みを持つことがある。
自分のことが好きか嫌いかということもこれに似ている。
自分のことを真に好きな人は、自分の好きなところをもっと好きになり嫌いなところは無理に好きになろうとはせずそれは次第に嫌いなところも好きなところからすればバランスが取れていてとても良いというふうに自分のことを丸ごと好きになることができる。
このように嫌いなところも含めた自分を丸ごと好きになれる人は、他人の嫌いなところを含めて好きなところをもっと好きになることができる。
よく考えてみると、好きになるというのは嫌いなところが気にならなくなるということであり、誰しも価値観で自分と合わないと思える人は存在するのにそれが合わなくてもそれ以上の善いところがあるから好きでいるのであると思う。
嫌いになるというのは、好きなところよりもどうしてもその人の嫌いなところばかりにフォーカスし気になってしまいそのためにどうしても丸ごとを好きになれずいつまでも好きになろうと嫌いなままでいるようになる。
つまり何かを好きになるのも、誰かを好きになるのも、これは仕事でも恋愛でも何でも好きな方をどれだけよりもっと大好きになれるかということが大切なのであろうとも思う。
自分の嫌な部分ばかりを見て自分を責める人は、やはり他人からもそこを責められる。そのことでもっと自分のことが嫌になるから自分の好きなところよりも嫌いなところを直そうと必死になっているうちにより嫌いになってしまう。こうなると半永久的に、自己嫌悪の感情に振り回されてしまい周囲や他人に嫌われいつまでも迷惑をかけ続ける事にもなる。
そうではなくて、もっと自分の好きなところでもっと貢献しようと決めたり、周囲から自分の好きなところだと言われる部分でもっと周囲の人たちのお役に立とうとしていくことである。そして周囲は、その人本来の素晴らしいところを見出し、他の嫌いな部分に寛容になってあげることでもある。その素晴らしい部分をどれだけ引きだし伸ばしそれを大好きになってあげるのか、それが丸ごと愛することでもある。
すべての生命は、自分たちにとって好きなところと嫌いなところというのはあるのでありそれは長所と短所があわさっていることと同じく、善いも悪いも使い道次第なのであろうとも思う。
せっかくなら、自分との付き合い方や周囲の付き合い方を丸ごと見直し、どれだけ自分が好きなところをもっと好きになる努力をするかということが自他を活かす上で重要になる。
自分が嫌いな部分を好きになるのではなく、好きな部分が嫌いな部分を受容し丸ごと大きく覆ってしまうような「大好き」になることが「好きこそものの上手なれ」の本質とコツなのであろうと私は思う。
もっと私自身、子どもたちのためにもイキイキと豊かに人生を歩めるよう好きなところをより大きく好きになれるように楽しんでいこうと思う。