思いやり>正義

世界では正義を振りかざし、こうあるべき論を展開し様々な悲惨な出来事が起きている。

もともと正義というのは、思いやりを実践するための手段であり正義が思いやりよりも優先されるということはない。仁義はあくまで、仁の後の義であろうとも思う。

それが今では、宗教者が戦争をして人を殺めることを正義の名のもとに行ったり、子どもを育てる人たちが正しい教育だのなんだののために思いやりに欠ける行為で深く心を傷つけていたりもする。

まず正しいかどうかを考えるよりも先に、相手を思いやることができたかということが本来の筋道であろうとも思う。

人は、いつも何かに恐れて正しいかどうかに依存する。今の世界で生きていけば、気にしていたらきりがないのが確かに思いやりであろうとも思う。自分では善かれと思ってやっていることが実はどこかに歪を発生させたりすることもある。それを怖がり、無難にやろうとしてまた正しいかどうか、正解かどうかにこだわり思いやりを忘れてしまうようなこともある。

それは本末転倒であることに気づくことが大切なのであろうと思う。

宗教で言えば、一番弱い立場の人たちのことを思いやり許し慈愛で包んだりする実践を行うことが思いやりであり経典が正しいかどうかが思いやりを決めるものではない。

育児であれば、子どものことに共感し受容し尊重し思いやることで育っていくことを見守る実践を行うことが思いやりであり育児書や教育方法が正しいかどうかが思いやりを決めるものでもない。

このように当たり前のこととはまず正しい云々を振りかざす前に、どれだけ相手のことを深く思いやることができているのか、そこから取り組めているかということが正しくありたいという心の姿勢、そしてそこに行動が伴い正義というものになっていくもの。

自分のエゴを優先して正しいと人が人に何かを押し付け従わせるとき、それは自分に都合の良い正義でありそれは必ず争い戦う相手を生み出してしまうものだ。

どんな理由にあったにせよ、その瞬間瞬間に相手を思いやりの心からはじまるということが大切なのであろうと本当に思う。

きっと相手に何か困っている理由があるのであろうという心の余裕も、そこから譲っていこうと決める行動も、まず正しいかよりも先に思いやりであることを忘れないようにしようと思う。

人を育てる仕事とは、自分の思いこんだ身勝手な正義も押し付けもしてはいけない行為である。相手を尊重し寄り添い見守るように間違いを正していきたい。

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